松山市への長期出張で、伊豫國の式内社を参拝する機会を得て、休みの日に実行していたが、
伊佐爾波神社を参拝した時に
松山八社八幡を知り、気になっていた。調べたら全て市街地近郊にあるので、出勤前の時間を使って参拝することにした。この日はその決行初日の2016年10月29日の参拝。画像を見ると秋晴れの快晴でかなり気持ちよく参拝したはず。
松山市駅付近の宿から道後平野東部の県道40号線を目指して進む。途中四国霊場の繁多寺にご挨拶し、さらに県道40号線を南下すると県道334号線との合流地点が久米八幡神社前交差点で、そこが境内入口。
境内を起点にすると南西域は道後平野が広がり、北東へは高縄半島の山塊が延びていく地。近くの四国霊場の浄土寺に立ち寄ってから当社前に8:00頃到着。
愛媛県松山市南久米町に鎮座。松山八社八幡の三番社。
天平勝宝4年(752)、宇佐の八幡神を勧請して創建され、久米八幡宮と称したという。孝謙天皇の勅許により、天平神護2年(766)に社廟を造営し、大神朝臣久米麿と高市古麿を斎主とした。
八幡神社の祭神は本殿内の三つの玉殿に祀られている。西玉殿に応神天皇・仲哀天皇、中玉殿に多紀理毘売命・狭依毘売命・多紀都毘売命(宗像三女神=比売神)、東玉殿に神功皇后。
この配置は
宇佐神宮と同じで、中央に位置する比売神が主祭神に見えてしまう。本殿の千木も女神のもので八幡神は興味深い。
また中玉殿には伊予比売命(伊豫津姫命)が相殿で祀られている。伊豫津姫命は伊豫津彦命と共に伊豫國の地主神で夫婦神ともいう。元は久米郡神戸郷古矢野神山に奉祀されていたが、洪水のため平井谷明神ヶ鼻へ遷り、その後再び洪水によって伊豫津姫命の神霊は縦淵(いまの龍神社あたり松山市久米窪田)に漂着した後、久米八幡宮に合祀されたという。
そして一説に伊豫津彦命はこの時期に今の
伊豫豆比古命神社に祀られるようになったという。
文治年間に源頼朝によって再興され、中世には河野氏の庇護を受け、承久年間、永享年間に社殿の整備がされている。
近世初頭、加藤嘉明が松山築城した際、八社八幡を定めて周囲の固めとし、当社はその内の一社となった。江戸期を通じては、久松松平家の崇敬を受けた。
社名は変遷していて、久米八幡宮の名で創建された後、中世は日王八幡宮に変わり、今は日尾の字をあてるようになった。社前の交差点には久米八幡神社前とあり、創建時の社名で呼ばれることもある様子。
当社の社号標「縣社日尾八幡大神」と注連縄柱「鳥舞」「魚躍」の書は三輪田米山。三輪田氏は大神朝臣久米麿の後裔で、三輪田米山は江戸時代後期の当社家の生まれ。
境内社は楼門周囲の参道沿いに生目神社、奈良原神社、黒田霊社、杉谷金刀比羅大権現神社、瑞垣内の本殿左側に春日神社、瑞垣内の本殿右側に五十鈴神社、本殿瑞垣外の右側に天満神社、東道後神社がある。
また本殿の西玉殿側玉殿に健内宿禰命、本殿の東玉殿側玉殿に猿田毘古大神がそれぞれ祀られている。
東道後神社

(祭神)天御中主大神・天照皇大神・月夜見大神。星、日、月の三光で三光神社ともいう。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
伊予鉄郊外電車の久米駅から境内入口まで約200m、徒歩すぐ。
駐車場=社前に数台可。
駐車=バイク〇、自動車〇。
徒歩、バイク、自動車に関わらず容易に到着できる。
境内社を含めて参拝は約20分程度の見込み。
御朱印=社務所あり、在宅ならば随時受け付けている。