2016年9月下旬から松山出張で、最初の休日の2016年10月4日がこのたびの最初の参拝日。この日計画した
湯神社の後の参拝。すぐ近くなのですぐに到着。
松山市桜谷町の御假屋山の頂に鎮座。道後温泉本館から南へ200メートルほど行き、交差点を東に進むと伊佐爾波坂と呼ばれるなだらかな坂道になり、その途中に伊佐爾波神社の一の鳥居がある。まっすぐ行くと伊佐爾波神社境内への階段参道がある。
創建年代は不詳、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に行幸した時の行宮跡に創建されたという。その場所は
伊佐庭の岡であったといい、いま道後公園(湯築城跡)になっている所。伊佐爾波の語源は神を招き神託を受ける神聖な場所、沙庭から来ているという。
伊佐庭の岡は『万葉集』にも歌われている。
皇祖神の神の命の、敷います国の尽、湯はしも多にあれども、島山の宜しき国と、凝しかも伊予の高嶺の、伊佐庭の岡に立たして、歌思び辞思はしし、み湯の上の樹群を見れば、臣の木も生ひ継ぎにけり、、鳴く島の声も変らず、遠き代に神さび往かむ行幸処。
山部赤人『万葉集巻三』
延喜式に伊予國温泉郡四座のうちの一社として記載のある古社。
建武年間(1334-1336)に河野氏が本拠地として湯築城を築城する際、伊佐爾波神社と河野氏の崇敬する八幡神を現在の地へ遷して以後湯月八幡宮と称し、湯築城の鎮守社並びに道後七郡(野間、風速、和気、温泉、久米、浮穴、伊予)の守護神とされた。
よって現在の祭神は八幡信仰の神々だが、創祀の神については伊佐尓波の神とするしかない。
『神社覈録』には、「伊佐爾波の岡、すなわち湯岡なる事明らけし、されば湯神は少彦名命に坐て、伊佐爾波神は其地主神ならむ」とある。
明治2年頃までは伊佐尓波神の祠が別にあったらしい。そして明治4年、伊佐尓波神が本殿に合祀されることになり、社名が伊佐爾波神社に改称された。ただし現在の祭神の中に伊佐爾波神は入っていないようだ。
境内への階段参道の途中右側に素鵞社、階段を上りきると立派な楼門、そこから左右に回廊が巡らされ、社殿群を取り囲んでいる。
楼門をくぐると、廊下と申殿(拝所)があり、その先に八幡造の本殿が透屏に囲まれている。本殿は回廊から見ることが出来る。八幡造の本殿はなかなか見ることができないので、うれしかった。
申殿の左右にも境内社があり、左(北側)が高良玉垂社、右(南側)が新田霊社。
新田霊社(後ろは南側の回廊)

(祭神)新田義宗・脇屋義治・松平定長、久松松平家が新田氏流を称していたことに関連すると思われる。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
伊予鉄市内電車の道後温泉駅から境内入口まで約300m、徒歩すぐ。
駐車場=神社の裏手にある他、道後温泉の有料駐車場がある。
駐車=バイク〇、自動車〇。周辺は旅館街、あまり広くない道だが、幹線道からの乗り入れは可能。
徒歩、バイク、自動車に関わらず容易に到着できる。
境内社を含めて参拝は約20分程度の見込み。
御朱印は在宅ならば随時受け付けている。