八百万のかみのやしろ巡り

日招八幡大神社

ひまねきはちまんだいじんじゃ

参拝日:2016年10月31日

日招八幡大神社  
所在地:

愛媛県松山市保免西1丁目4-3 [地図]

御祭神:

品陀和気命・息長帯比売命・宗像三女神

公式頁:

社格等:

仁和元年(885)2月10日 門島神 正六位上 三代実録

明治初年郷社

松山八社八幡五番社

 
 松山市への長期出張中の参拝。この日は休日で高縄半島西岸域の古社と松山八社八幡の五社を自転車で巡拝。

 朝日八幡神社から松山環状道路を南下して、土居田町の住宅街に入り、伊予鉄の線路に阻まれたり若干迷いながら国道56号線沿いの日招八幡大神社の参道に14:10頃到着。

 愛媛県松山市保免西に鎮座。大きな国道からの参道だが、一歩入ると落ち着いた佇まい。国道56号線の南側にも参道と鳥居があって、参道が国道で分断されているかたち。松山八社八幡の五番社。

 社伝によると589年(崇峻天皇3年)、筑前国の宗像神を勧請して創建、門嶋宮と称していた。宗像神の勧請は越智益躬によるという。
 『三代実録』の神階奉授記事にある門島神と門嶋宮は類似があるが、国史見在社として比定する史料は見当たらないので、これは私的な比定。
 また宗像神の勧請の前には、すでに饒速日命、天道日女命を祀った社であったという説がある(『明治神社誌料』)が、物部氏族の関与を示す史料は見当たらない。

 大同年間(806-810)、藤原雄友が疱瘡の治癒を祈願し成就したという。この時期は伊豫親王の変によって藤原雄友が伊豫國配流されている。このことから伊豫疱瘡宮とも称されていた。
 元慶2年(878)には八幡神を勧請して、石清水八幡宮と称した。

 祭神は八幡信仰の神々で饒速日命、天道日女命は祀られていないようだが、『明治神社誌料』には上津宮(饒速日命・天道日女命)、中津宮(市杵島姫命・田心姫命・多岐津比売命)、下津宮(品陀和気命・息長帯比売命)の三社形式が記されいる。

 近世初頭、加藤嘉明が松山築城した際、八社八幡を定めて周囲の固めとし、当社は五番社として、その内の一社となった。

 日招八幡の社号には説話があって、元暦元年1184佐々木高綱と砥部城の森山氏、荏原城の大野氏との合戦で、佐々木側の勝利目前で日が落ちるのを、八幡神に祈願して日を呼び戻して勝利を得た。佐々木高綱は日招八幡宮と改称、神領を寄進して、神恩に報いたという。
 参拝前は日招=止雨の祭祀とも想像していたが、そういった話しは見当たらない。
境内入口
 
社前の橋
旧称を冠した「門嶋橋」。
隋神門
 
境内参道
拝殿
 
本殿
境内社は拝殿、本殿の左右に点在していて、左側に山王大権現、祇園社、火鎮社、春日社、少し奥に佐々木社、右側に恵比須社、高良社、金刀毘羅社、祖霊社がある。また境内にいくつか史跡も残っている。
山王大権現
 
祇園社、火鎮社、春日社
佐々木社
佐々木高綱を祀っていると思われる。
 
恵比須社、高良社
金刀毘羅社
 
祖霊社
佐々木高綱五輪塔
佐々木社の後方にある。
 
おとよ石
おとよ石
 昔、松山城が造られたごろのことなんよ。
松前の港には、大名から送られた紋入りの石垣用の石が山 のようにあってな。この石を、毎日たくさんのおたたさん が頭にのせて、松山にへ運びよった。
その中の一人、おとよは長い勤めじゃけん疲れきっとった けど、その日も勤めに出たんよ。
 一つ丸にニの字の入った石は、大きいので、だれも顔を 見合わせて運ばなんだ。ほやけどおとよは、
 「私が勤めましょう。」
と言うたんよ。みんなは、止めたけんど、
 「これくらいのことがでけんようでは、御城主様にすまん。」 と言うて運び始めたんよ。
出合を過ぎるへんからおくれがちになって、よろめいとっ た足も、日招神社のところまで来て、とうとう前に進まん ようになって、倒れてしもたんよ。
 それで、このけなげなおとよをあわれんで、その石を、 「おとよ石」といい、この神社に残すことにしたんよ。
「松山のむかし話」
社号標
隋神門の脇にある。「郷社日招八幡大神」とある。
 
鳥居
国道を挟んだ南の参道にある。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
伊予鉄郡中線土居田駅から境内入口まで約1km。
駐車場=あり。
駐車=バイク〇、自動車〇。
徒歩、バイク、自動車で容易に到着できる。
参拝は約15分程度の見込み。
御朱印は在宅ならば受け付けているようす、要確認。
[作成日]2025年07月29日
[更新日]2025年07月29日
[参考]・境内由緒書 ・明治神社誌料 ・愛媛県神社庁HP
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