宇佐神宮
うさじんぐう
参拝日:2012年5月14日

2012年5月14日午後の参拝。この日の早朝に新門司港に着いて、
香春神社、
惣社八幡神社、
大富神社、
大根川神社、
稲積六神社、
乙咩神社、
和間神社、
田笛神社、
郡瀬神社、
泉神社、
鷹居神社、
小山田神社、
百体神社からの巡拝。
百体神社から勅使道を国道10号線の方向へ戻り、国道10号を東に向かうとすぐ宇佐神宮である。到着すると雨があがっていて、なんとなく持ちそうな気がしたので合羽を脱いで参拝することにした。15:00頃到着。
以前に訪れた時(御朱印の日付)には体調が良くなく、境内をくまなく回ることが出来なかったが、今回は全て回るつもりで気合いを入れて参道を進んだ。
参拝を終えた時に、合羽を着て同じ行程を回ると、蒸し暑くて大変だったなと思った。
延喜式に八幡大菩薩宇佐宮、比賣神社、大帯姫廟神社とあり、いずれも名神大社である。豊前国六座のうち、香春神社の三座と折半する形である。また神階は皇族に与えられる品位を奉授されている。これは八幡神が人神(応神天皇)とされ、朝廷からの崇敬が高かったことを示しているとのこと。八幡宮の根本社で豊前国一の宮、明治6年宇佐神宮と改称して現在に至る。
社伝によると、欽明天皇御宇32年(571)八幡神は菱形池の畔に童子の姿をして示現せられ、「我は誉田天皇広畑八幡麻呂なり」と告げた。託宣を受けた大神比義は辛嶋勝乙目と共に祝として仕えた。和銅5年(712)鷹居瀬社を創建、、小山田社を経て神亀2年(725)現在の地に遷座、この年を宇佐神宮の創建年とする。
八幡神はすなわち応神天皇の御神霊であるというのが現在の形だが、応神八幡神の前身である八幡信仰があったという。
『八幡信仰史の研究』では「原始」八幡神の成立について、宇佐八幡宮の二大儀礼である「放生会」と「行幸会」から考察している。放生会の中心は田川郡採銅所の古宮八幡宮からの銅鏡奏上であり、行幸会の中心は下毛郡三角池の薦神社(大貞八幡宮)で作った薦枕を神験として八幡本宮に納める祭儀である。これら二つの祭祀集団が奉じた神を前者を豊国の神、後者を山国の神とし、双方が奉じた神を合体したものが八幡神であるとする。祭祀氏族は辛嶋氏であり、最初の聖地は「山豊国」の中間地であった福岡県築上郡築上町の矢幡八幡宮(いまの金富神社)との説がある。
原始八幡神は山豊国から宇佐国へ広がりを見せ、辛嶋氏は宇佐国にも定着、信仰の発展を図るのに矢幡八幡宮の地からの宇佐国へ遷座したとされる。その地が辛嶋郷であり、宇佐国での最初の聖地は泉神社とされ、『辛嶋系図』によると、大化4年(648)酒井勝志米が禰宜兼泉社社司に任じ、同年に酒井泉社を創建したという。
さらに大和国より大神氏が宇佐に入ってきて、辛嶋氏と大神氏の闘争の結果、祭祀の中心が大神氏へ移行する中で応神信仰に切り替わり、応神八幡として創建されたのが鷹居社で、その後小山田社を経て、小椋山の現社地に遷座したとしている。
八幡神は大隅日向の隼人反乱において、その神威を示したことによって朝廷に知られるようになり、天平3年(731)には官社に列した。奈良東大寺の大仏造立への協力によって、鋳造の後には奈良の都に入京、東大寺の鎮守神、手向山八幡宮として勧請された。
また道鏡の皇位継承事件における宇佐八幡宮の託宣は、朝廷との結びつきを一層深めたものとされる。
神仏習合もはやい時期より進んでおり、天応年間(781-782)には八幡大菩薩の神号を得ていたという。
一方比売大神は宇佐氏の奉じていた神で、多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命の宗像三女神ともされ、御許山に降臨したという。比売大神が初めて祀られたのは、宇佐市安心院町の
妻垣神社とされる。妻垣神社のいまの主祭神は玉依姫で比売大神とは同体とされる。比売大神は山豊国(辛嶋氏)と宇佐国(宇佐氏)の連合が成立した時期に八幡神と共に奉斎するようになったと思われる。
神功皇后が祀られるのは弘仁14年(823)で時期は最も新しい。八幡神=応神天皇がこのころまでにいよいよ明確になっていたと思われる。延喜式に大帯姫廟神社とあり、この神社のみ神階が奉授されていないことから、廟と神社の中間的な存在であったと考えられている。
境内はとても広く、周囲は寄藻川と御食川に囲まれていて、お城の堀のような印象。川に囲まれた地域の外、御食川の東側の大尾山は一時八幡神が鎮座した場所。境内のほぼ中心域に八幡神が示現したという菱形池がある。
参拝は境内北側の駐車場から表参道を進むのが一般的。そこから寄藻川とにかかる神橋を渡って参道を南へ進み、境内南側の小椋山の上宮を目指す。境内西側の西参道はかつての表参道、その境内入口になる場所に寄藻川にかかる呉橋がある。
表参道の鳥居

国道沿いの駐車場から進むとこちらの鳥居から境内へ。
表参道の鳥居

神橋

鳥居をくぐってから右に曲がるとこの神橋。
神橋

神橋で寄藻川を渡る。宇佐神宮を離れた寄藻川は和間浜で周防灘へ注ぐ。
大鳥居

境内に入って最初の鳥居(二の鳥居)。下宮から上宮への参道と大尾山への参道の分岐点に建つ。「下乗」の立看板がある。
参道

このあたりから「小椋山」への登り。「皇族下乗」の立看板がある。
参道を振り返る

見える鳥居は二の鳥居。
参道

上宮と下宮の分岐。右が下宮、左が上宮への参道。
下宮の神門

下宮の拝所

下宮の本殿

弘仁年間(810-824)に朝廷より造営使が遣わられ、上宮の分霊を祀って創祠。
上宮への参道

上宮入口の鳥居

上宮の入口に建つ鳥居。宇佐鳥居と呼ばれ、古来の様式を継承する。
西大門

上宮境内
南中楼門(上宮拝所)

南中楼門(勅使門)を中心にして、左から一、二、三之御殿の拝所。
一之御殿

一之御殿拝所から八幡大神を祀る一之御殿を見る。
二之御殿拝所

南中楼門(勅使門)が二之御殿の拝所。御門の神として高良大明神、阿蘇大明神の二神を祀る。
二之御殿

一之御殿拝所から申殿とその背後の二之御殿。二之御殿には比売大神を祀る。
二之御殿

三之御殿拝所から申殿とその背後の二之御殿。南中楼門や二之御殿の配置から、比売大神が主祭神に見えてしまう。比売大神は多岐津姫命、市杵嶋姫命、多紀理姫命の宗像三女神とされる。
三之御殿

三之御殿拝所から神功皇后を祀る三之御殿を見る。
大元神社遙拝所

上宮の境内から御許山(宇佐神宮奥宮大元神社)を遙拝する。御許山は比売大神が降臨した地とも伝えられる。
百段

上宮の境内から南大門に降りる階段がある。かつては大石を使った造りであったという。
南大門

境内から百段を降りた先の南大門。
西参道鳥居

勅使道から来るとこちらにたどりつく。昭和初期まではこちらが表参道。
呉橋

檜皮葺の屋根付きの橋。神事の時のみ使用される。
寄藻川と呉橋
西参道

西参道を進んでから呉橋を振り返る。
大尾山参道

表参道から大尾山へ向かう参道。
大尾山参道

突き当たったところが大尾山への登り口。
頓宮入口の鳥居

大尾山の登り口の手前に頓宮がある。
頓宮拝所

頓宮は仮殿、御仮屋ともいわれ夏越神幸祭の時、三基の神輿が遷御される。
頓宮本殿

宇佐祖神社(祭神菟狭津彦命)ともいわれる。
頓宮神輿庫

広大な境内に境内社はまんべんなくいろいろな場所に鎮座している。
参拝した順に掲載。見落とした境内社もいくつかある。
黒男神社

表参道二の鳥居の手前に鎮座。祭神武内宿禰。八幡大神への奉仕が著しい神として大鳥居の外で八幡大神を守護している。
大尾山登り口

御食川を渡る。御食川は広い境内域の南側を取り囲むように流れる。時期と時間帯もあって、こちらまで足を運ぶ人は全くいない。
大尾山登り口の鳥居
護王神社

護王神社

大尾山中腹に鎮座。祭神和気清麻呂。
大尾神社

大尾山頂に鎮座。祭神八幡大神。天平勝宝元年(749)、東大寺の建立にあたり、八幡大神と比売大神が奈良に行幸、その後、帰還にあたり大尾山の頂上に鎮座するとの託宣によって天平神護元年(765)に造営、八幡大神は大尾山に約15年鎮座した。和気清麻呂が勅使として参拝、八幡大神の神託を受けたのは、この場所であるとされる。登り口からここまで約8分。
木匠祖神社

菱形池の北側に鎮座。祭神手置帆負命・比古狭知命。物づくりの職人の守護神。
八坂神社・養蚕神社

西参道南側に鎮座。八坂神社祭神須佐之男命、養蚕神社は祭神天照大神。
呉橋付近に小石祠が点在している。
天満神社の鳥居

天満神社

祭神菅原道真
境内社

境内社

淡嶌社

境内社

下宮から上宮の間の参道沿いの境内社
春宮神社

下宮手前の参道に鎮座。祭神菟道稚郎子命、応神天皇の御子神。
若宮神社

西大門の手前の参道に鎮座。祭神仁徳天皇。
上宮境内の境内社
春日神社

上宮回廊内一之御殿の西側に一之御殿脇殿の春日神社。祭神天児屋根命。
北辰神社

上宮回廊内一之御殿の西側奥側に二之御殿脇殿の北辰神社。祭神は天御中主神・高御産巣日神・神産巣日神の造化三神。一説には小椋山の地主神という。その建築様式は八幡造りの祖型ともいわれる。
住吉神社

上宮回廊内三之御殿の東側に三之御殿脇殿の住吉神社。祭神表筒男命・中筒男命・底筒男命。
八子神社

西回廊の楠に鎮座する八子神社。八幡大神の八王子神を祀る。
菱形池南側の境内社
亀山神社

祭神大山積命。
水分神社

祭神高龗神・天水分神・国水分神・天汲匏持神・国汲匏持神
週間神社紀行
「延喜式」に「八幡大菩薩宇佐宮、比売神社、大帯姫廟神社」と記され、1872(明治5)年、宇佐神宮に改められた旧官幣大社。
祭神は八幡大神・比売大神・神功皇后の3柱で、鎮座の年代は一之御殿の八幡大神が725(神亀2)年、二之御殿の比売大神が733(天平5)年、三之御殿の神功皇后が823(弘仁14)年。
八幡神は御許山を神体山とする宇佐地方の信仰に発するともいうが、社伝によれば571(欽明天皇32)年、八幡神が菱形池のほとりにあらわれ、3歳の童子の姿で「われは誉田天皇(応神天皇)広幡八幡麻呂なり」と告げたのが最初。童子は黄金の鷹になり、とまった地に708(和銅元)年、鷹居社が祀られ、小山田社を経て、現在地に遷座した725年が神宮創建年。
八幡神が歴史に登場するのは、720(養老4)年、隼人の乱の鎮圧に神験をあらわしたときのこと。以後八幡神は仏教と融合しつつ神威を高め、神仏習合発祥の宮として、大和朝廷との結びつきが強まる。国家的事業であった東大寺の大仏造営に協力、仏法や寺院を守護する鎮守神と国家守護神の役割を担った。
平安時代に京を鎮護する石清水八幡宮が、鎌倉時代には幕府の鎮守として鶴岡八幡宮が勧請・創建され八幡宮は全国に広がる。その数は現在約4万社。
イチイガシの森に囲まれた広大な境内は国史跡で、上宮の八幡造りの本殿3棟は国宝。下宮、頓宮のほか、境内に28の摂社・末社が祀られ、境内西には奈良時代創建の神宮寺・弥勒寺跡がある。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
JR日豊本線宇佐駅から境内入口の神橋まで約3.5km。
参拝者駐車場=あり、かなり広い 駐車=バイク〇、自動車〇。
最寄駅から徒歩約50分、バイク、自動車に関わらず容易に到着できる。
参拝は境内社も含めて約2時間程度。今回は駆け足で行ったので、実際はもう少しかかりそう。
御朱印は上宮境内で受け付けている。
[作成日]2019年11月10日
[更新日]2019年11月10日
[参考]
・八幡信仰史の研究 ・宇佐神宮の研究 ・式内社調査報告 ・古代諸国神社神階制の研究 ・週間神社紀行宇佐神宮 ・公式ホームページ