大須伎神社
おおすきじんじゃ
参拝日:2016年10月24日
2016年9月下旬から松山出張中で、休日の2016年10月24日の参拝。
この日は今治市内を四国霊場札所を交えながら巡拝した。当社の前に、
天一神社、
大野神社に参拝、その後317号線を北上、鴨部橋西交差点から北西に延びる道へ入る。参道入口前に10:20頃に到着。
蒼社川左岸高橋地区の権現山と呼ばれる丘陵上が境内域。ここは元は伊豫熊野権現の社地で、明治44年に大須伎神社を含む近隣の諸社を合祀した際、社名を大須伎神社とした。式内社尊重の気運があったと思われる。
境内入口から社殿まで約350mあり、なだらかに登っていく。入口付近は整備されているが、途中に野趣ある箇所があり、一風変わっていておもしろい。
丘陵上の参道一帯は社域と思われ、かなり広い。境内社は本社背後に稲荷社があるが、これほど長い参道があって途中に境内社がないのもめずらしいと思った。
創建年代は不詳。
延喜式神名帳の伊豫國越智郡七座のうちの一社。社伝に延喜16年(916)、寛弘8年(1011)、承久2年(1220)、正長元年(1428)に洪水による社殿流失と伝わる以外、中古の動向は記録なく不詳。
祭神は境内掲示板によれば、大須伎神社と合祀の神々。
・小名毘古那命・阿遅鋤高日子根命
・伊邪那美命・熊野忍隅命(伊豫熊野神社)
・品陀和気命・息長帯姫命(小林八幡神社)
小名毘古那命については特に根拠となる資料は見当たらない。阿遅鋤高日子根命は社名と神名に共通する「スキ」が含まれていることによる付会のような気がする。
現在の祭神が定着するのは幕末から明治初頭にかけての時期とする説がある(『式内社調査報告』)。
また他説に屋船久々遅命(木の神)との説がある(『神名帳考證』)。社名のおおすきから大杉にあて、生まれた説と思われる。
伊豫熊野権現は近世を通じて今治藩久松松平家の崇敬を受けた社。
小林八幡神社は村氏神として機能していた社。
『今治領寺社明細言上書』(貞享2年(1685))によると、大須伎神社は江戸期には伊豫熊野権現、小林八幡神社の末社的地位であった。
当地は越智氏と祖を同じくする高橋連によって開拓されたといい、創祀は高橋氏によるものとする説がある。
境内入口

右側の道から駐車場へ。
参道の社号標

立派な社号標。
参道(*1)

参道

参道

参道の鳥居

文化6年(1809)銘がある。参道にある鳥居はここだけ。
境内入口の注連縄柱

拝殿

幣帛殿

本殿

境内社は稲荷社があり、本殿背後から参道がある。その他参道の施設など、訪問順に掲載。
また愛媛県神社庁HPには境内社として八社明神の記載があるが、社殿をみつけることが出来なかった。八社明神は明治44年の合祀のうち、大須伎神社、伊豫熊野神社、小林八幡神社以外の近隣諸社の祭祀を引き継いでいるのではないかと思う。そして本社本殿に相殿されているのではないだろうか。
伊豫熊野社の社号標

(*1)参道付近にある。
小林八幡神社社号標

(*1)参道付近にある。
河上安固腰掛石

参道の鳥居の近くにある。18世紀中頃、河上安固は蒼社川の治水にあたり、権現山から流路の観察をした。
稲荷社参道

稲荷社参道

稲荷社拝殿

本社本殿から約3分のところ。
稲荷社本殿

元は今治城内に祀られていたが寛文10年(1670)伊豫熊野権現再興の際、この地に奉遷。
雨乞石と御宝松跡

雨乞祈祷に霊験あった石と村民がかつて崇めたという御宝松の跡
大須伎神社旧社地、字倉橋児童公園
訪問日:2016年10月24日
所在地:愛媛県今治市高橋字倉橋 [地図]
大須伎神社の旧社地。鴨部橋北詰から北西すぐ。明治44年に伊豫熊野神社(いまの大須伎神社)に合祀されるまでこの地に鎮座していた。
鳥居

文化10年(1813)銘がある。
旧境内の公園広場
手水鉢

公園の一番奥にある。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
JR予讃線今治駅から直線距離で約4km、今治駅からイオンモール行きのバスである程度は近づける。
駐車場=ある。
駐車=バイク〇、自動車〇。
徒歩のみは若干きびしい、バイク、自動車は容易に到着できる。
参拝は旧社地含めて約40~50分程度の見込み。
御朱印=境内に社務所なし。
[作成日]2025年03月18日
[更新日]2025年03月18日
[参考]
・式内社調査報告 ・愛媛県神社庁HP