2016年9月下旬から松山出張で、最初の休日の2016年10月4日松山市近郊の神社を巡拝しようと計画した。松山市、東温市と回った後、伊予市に入り、
伊曽能神社、
高忍日売神社、伊予市の
伊豫神社と巡拝した後の参拝。
伊予市の伊豫神社から上野郵便局前交差点に戻り北上、県道214号線で予讃線を跨線橋で越えてから北に入る道を行き注連縄柱の立つ境内前に15:10頃到着。
愛媛県伊予郡松前町神崎に鎮座。北伊予駅から当社までは宅地が続き、途中に学校もあって、にぎわいを感じる街にある。
創建について一説に、第7代孝霊天皇の第3皇子・彦狭島命の霊跡である今岡宮を、景行天皇御宇、今の場所に勧請して神皇宮と称した。
後世、伊豫親王宮と称して、源義経の寄進や河野氏累代の崇敬を受けていたという。
祭神は彦狭島命、別名伊予皇子とも。『予章記』では河野氏は彦狭島命の王子を祖とし、「即ち当家の始祖なり」と記している。
祭神には他の説もある。
伊予親王(桓武天皇皇子)『伊豫古蹟志』
伊輿主命(久味(久米)国造の祖)『特選神名牒』『神祇志料』
延喜式内社伊予國伊豫郡四座のうちの伊豫神社の論社とされる神社。また当社を式内伊豫豆比古命神社とし、現在の伊豫豆比古命神社を式内伊豫神社とする説もある(『愛媛面影』『神社覈録』)。
当社は中世初頭から江戸時代中期まで親王宮と称していた文献記録がある。初見とされるのは、建長7年(1255)の『伊豫国神社佛閣等免田注進記』で「免田伊与親王宮」とある。次いで応永年間(1394-1428)の『予章記』 や、明応6年(1497)の『水里玄義』にも見られる。
江戸時代では、寛文3年(1663)の棟札に「親王宮大明神」とあるが、続く貞享2年(1685)の棟札には「伊豫神社齋場」、元禄11年(1698)の棟札には「伊豫神社」とあり、伊豫神社と称したのは、17世紀末頃からと考えられる。
本殿後方に五輪塔が置かれている場所があり、このあたりは「入らずの森」として畏敬されてきた場所。明治30年の発掘調査で経塚が検出され、宋代とされる磁器壷2個と青銅経筒6個などが出土している。
境内入口の注連縄柱

左側の社号標に「延喜式内名神大社伊豫神社」。ちょっと左にこの旅の相棒が登場。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
JR予讃線北伊予駅から約750m。
駐車場=なし
駐車=バイク×、自動車×。
徒歩、バイク、自動車で容易に到着できる。
参拝は約10分程度の見込み。
御朱印=境内に社務所なし。