ひとつ前に参拝した筑土八幡神社から飯田橋駅方向へ、九段下までの道は目白通りと名がついている。九段下のひとつ北の交差点、九段北1丁目から西は坂道で、登り始めるとすぐの左側、鏡のような反射ガラスのビルの下に鳥居。都会の中の都会の神社だなぁと感心。筑土八幡神社から約5分後の6:50頃に到着。2017年3月29日、午前の参拝。
東京都千代田区九段北に鎮座。九段下の交差点から北西へ直線約130mの地。
社伝によると天慶3年(940)6月の創建。平将門が藤原秀郷などに討たれて、京都にさらされた首を密かに持ち帰り、武蔵国豊島郡上平河村津久戸(いま千代田区大手町の将門塚周辺)の観音堂に祀り、津久戸明神と称したのが始まりという。
その後は幾度となく社地は変遷している。
・太田道灌の江戸築城に際し、一説には江戸城鎮護のため、城の乾の方角に遷されたとされる。場所はいまの北の丸公園あたりという。
・天文年間(1532-1555)にはいまの田安門外の高台へ、このとき田安明神と称されるようになる。境内は広大で、日枝山王権現、神田明神と合わせて江戸三社のひとつとして庶民の信仰を集めていた。
・天正年間(1573-1592)徳川家康の江戸入府にあたり江戸城の拡張により移転、下田安牛込見附米倉屋敷跡、いまの飯田橋駅西口附近へ
・元和2年(1616)江戸城のさらなる拡張によって、筑土八幡神社の西隣へ遷座、このとき築土明神と称されるようになる。
・昭和20年の空襲により焼失し千代田区富士見町(いまの九段中等教育学校敷地)へ。
・いまの九段中等教育学校建設により、境外末社であった世継稲荷神社の境内へ遷座。
創建以来、平将門を祀る神社であったが、明治以後、天津彦火邇々杵尊を主神とし、将門を配祠神とする神社となった。
戦災で焼失したが、将門の首桶や平将門の肖像画が社宝として伝わっていた。いまは画像のみが残っている。
九段下の交差点の北西、北の丸スクエアの裏手のビルの地上階が境内。鳥居から社殿まで北向きに建っている。参道の上はビル、社殿の周囲は空を望める。境内社に世継稲荷神社がある。
参道

基礎柱の中を進む。独特な参道も都心の神社ならでは。