2014年6月23日午前の参拝。訳あって1年ほど参拝の足「マウンテンバイク」に乗れていなかったので、体を慣らそうと八幡市御幸橋あたりまでの往復を繰り返していて、その帰路の途中に立ち寄った時のもの。当社の前に
佐太神社に行っている。同時に守口市内の他の神社もいくつか回った日。
大阪府守口市金田町に鎮座。京阪電鉄寝屋川市駅から直線西約2.2kmの地点。鳥居前の道は府道15号線(八尾茨木線)で古くは枝切街道や小阪街道とも言われた道。道幅の狭い2車線道ながら新旧の国道1号線と国道163号線をつなぎ交通量は多い。
府道15号線を挟んだ向かい側は、対馬江、黒原を付した町域で、元「対馬江村」であった。旧社地は対馬江村にあったが、洪水によって現社地に遷座した。
社名の「津嶋部」は津島江からの転訛とされ、かつての淀川本流と支流が形成した中州が津島と呼ばれる船着き場であったことから津島江となり、村名の対馬江は神社名と同名であることを憚って変わったものだという。黒原は「呉原」で渡来氏族の居住地といわれる地。
創建年代は不詳。
祭神の津嶋女神は津嶋部から転化し津嶋女神となったという説がある。対馬江近辺には淀川水系の治水に関わった渡来氏族が居住していたとされ、その中で津嶋部臣が自らの祖神を祀ったことが創建の由来であるという。
文徳実録に嘉祥3年津島女神に従五位下を授けられた記事があり、延喜式では河内國茨田郡五座のうちの一社。
江戸時代には、「牛頭天王」「大宮天満宮」とも称せられた。
素盞鳴尊は明治以前までの主祭神であり、祀られた時期、経緯は不詳。津嶋女神と同様、この地域の治水を担った渡来氏族の神であるといわれる。
菅原道真は淀藩永井氏によって寛永年間に合祀されたもの。このとき神領五百石が寄進された。
また弁財天と思われる女神像が刻まれている懸仏が元神宮寺で隣接する金龍寺に残されている。津島は厳島からの変異と考えられ、弁財天を本地仏とする市杵島姫命であったとの説もある。
諸書の祭神説は以下の通り。
・埴安姫命 延経『神名帳考証』
・天児屋根命 『神祇志料』『大日本地名辞書』 津島直の祖神として。
・津島女神 『特選神名牒』
祭神は時勢によって変遷を見たが、現在は上記の津嶋女大神・素盞鳴尊・菅原道真を祀っている。
明治5年に郷社となる。
鳥居、拝殿、本殿は全て東向き、鳥居から一直線で社殿が建つ。境内社は社殿の周囲を囲むように点在する。境内は木々が聳えるエリアがバランス良く配されている感じで、住宅地街ながら境内は広くゆったりとした印象。
境内入口の鳥居

府道15号線に面した鳥居。鳥居には宝暦2年(1752)銘、鳥居脇の石灯籠には寛政10(1799)年銘の一対。
参道

鳥居から拝殿までの参道。手前の石灯籠には明和7(1770)年銘の一対。「尾州 中西與一右衛門」なる人物が奉納している。尾張徳川家と姻戚関係のある在地武家、中西氏との関連と思われる。
拝殿

拝殿前には注連縄柱。入母屋造り唐向拝つき。天保4年(1833)銘の台座に狛犬一対。その手前にある石灯籠一対には元禄12年(1699)銘、石灯籠には天神宮と刻まれており、かつて「大宮天神宮」と称されていた頃のもの。
本殿

弊殿と本殿、切妻造り平入。千木は外削ぎになっている。社殿は元禄年間に再建されており、江戸期は素盞鳴尊が主神の地位にあり、女神は意識されていなかった。
山王戎神社

『式内社調査報告』には以上の境内社の他に比枝神社の記載があったが、それらしいものは見つけられなかった。同じ大山咋神を祀る山王社に合祀、あるいは相殿か。
手水鉢の刻文

手水鉢には延宝6(1678)年の銘と「河州大久保庄金田村 大宮天神御寶」の刻文がある。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
京阪電鉄本線寝屋川市駅から約2.6km、徒歩40分程度。寝屋川市駅、守口市駅からバスがある。宮垣内バス停下車。
駐車場=なし、駐車=バイク△自動車×。
徒歩、バイクで容易に到着できる。自動車は近隣に駐車して徒歩で向かうのが良い。
境内社を含めて参拝は約10分程度。
御朱印=境内に社務所があるが、常駐していないようす、事前に確認。