2017年3月29日午前の参拝。大手町の将門塚から一つ南の永代通りを東へ、江戸橋一丁目交差点を過ぎてから北上、首都高速の高架下、日本橋川の袂の当社に7:45頃到着。
東京都中央区日本橋兜町に鎮座。いわずと知れた金融街、兜町の由来が当社である。日本橋交差点から北東へ直線約450m、首都高速江戸橋ジャンクションの真下、はす向かいに東京証券取引所。透かしのある囲いの中が境内、流造りの社殿が一宇。
兜神社の起源は兜塚といわれる塚に源義家の神霊を祀っていたことで、創祠年代は不詳。
弘化2年版『楓川鎧の渡古跡考』の地図に鎧の渡し附近に兜塚と鎧稲荷が描かれていて、この頃には魚河岸に出入りする漁民、商人の信仰を集めていた。鎧稲荷は一説には平将門を祀ったのが起源といわれている。
また楓川はかつて日本橋川から南に分流していた川、いまの首都高速高架下あたりと思われる。鎧の渡しはいまの鎧橋の対岸を渡していた。
明治4年(1871)、東京商事(三井物産の前身)の移転に伴い、兜塚と鎧稲荷は鎧の渡しと兜橋の中間に遷された。兜橋はいまの首都高速高架下あたりにかかっていた。この時、兜塚が兜神社として祀られるようになり、さらに鎧稲荷を合併し、いまの兜神社のかたちとなる。
明治7年(1874)には源義家の祭祀を取りやめて、新たに三井家の信仰していた三囲稲荷神社(墨田区向島)の境内社の福神社より大国主命と事代主命を勧請して合祀した。
昭和2年(1927)にいまの社地に移転した。
(閑話)当社配布の「兜神社の由来」によると当社の所在地は中央区日本橋兜町1-8となっているが、実際には1-12のようである。1-8は山和証券になっていて、あるいは明治4年に遷された場所が1-8で、現在地に遷された時、番地はそのまま継承したのかもしれない。そういう事例があるのかどうかもわからないが・・・。
境内の「兜岩」の由来には諸説あり、
・源義家が奥州より戻ってきた際、東夷鎮定のために兜を埋め、塚となった場所が兜塚である。
・前九年の役の時、源義家が岩に兜をかけて戦勝祈願した。その岩を兜岩と呼んだ。
・藤原秀郷が平将門を討ち、兜のまま首を持ち帰り、この岩の場所に埋めた。できた塚を兜山と呼んだ。