桜のピーク時期は休むことが出来なかったため、久しぶりに出かけることが出来たのがこの日。3月11日に延喜式多磨郡の神社をいくつか参拝していたので、多磨郡の続きいってみようということで多磨郡の神社と入間郡の神社の巡拝を計画、まずは狭山丘陵の周辺からスタートすることにした。参拝の足はいつもの「レンタサイクル」を計画、西武池袋線狭山ヶ丘駅にレンタサイクルがあるとのことで狭山ヶ丘駅に向かった。
今回は西武池袋線も2度目、あたふたせずに向かう。レンタサイクルをネットで調べたところありがたいことに朝の7:00から営業しているとのこと。宿を早朝に出発し、狭山ヶ丘駅には7:00前に到着した。
駅では都心へ向かう通勤客と行き違う時間帯、さて駅を出て右側に・・・無い。駐輪場で貸してくれるのかなと思い、問い合わせてみると・・・、なんと既に無くなっており、あった場所は更地に。聞けばもう2年ほど前に撤退しているらしい。ネット情報なので注意深く調べていたつもりだったが、痛恨のミスである。
さてどうやってリカバリしようかと駅前で思案、手持ちの資料は狭山ヶ丘駅レンタサイクル前提のものしか持っていなかったのだが、記憶にJR箱根ヶ崎駅のレンタサイクルがあったのでそちらへ向かうことにした。狭山ヶ丘駅からは西武池袋線で飯能駅へ、さらに東飯能駅へ、そこからJR八高線で向かう。その前に沿線の廣瀬神社へ先に詣でることにした。
入間市駅から国道16号線へ出て、入間川小入口交差点を北へ、広瀬橋で入間川左岸へ渡る。県道262号線を広瀬交差点で西進、すぐに分岐する右側の道へ進むと鳥居が見えてくる。8:10頃に到着。
埼玉県狭山市広瀬地区の中央点に鎮座、西武池袋線入間市駅から北へ直線1.8km、入間川から500mの地。
鳥居の前まで来ると桜が満開の参道が目に飛び込んできた。この時点で今後の成り行きに不透明感があるが、心躍る本日最初の参拝になった。
文徳実録に嘉祥3年(850)に官社に列せられたとの記事がある廣瀬神の比定社で、延喜式神名帳入間郡五座の内の一社。論社は他になく、鎮座地もほぼ変わっていないという。
当社の地域は行政区域の郡に変遷があったとみられている。『倭名類聚抄』編纂時の平安時代中頃は入間郡であったと考えられているが、中世から近世には高麗郡であったらしい。当社所蔵の懸仏には天正10年(1582)奉納と書かれたもので、そこに「高麗郡廣瀬郷」とある。近世文献の『新撰武蔵風土記稿』や『神社覈録』にも「高麗郡廣瀬村」とある。
社伝によれば創建年代は3世紀で、景行天皇の御宇、日本武尊が東征した時、この地が大和国廣瀬河合の地とよく似ていたので、尊が幣帛を奉り、大和廣瀬の神を祀ったことにはじまるという。
この伝えは、廣瀬坐和加宇加賣神社の創祠は国史に天武天皇4年という記載があり、時代が違うとの指摘がされている。
祭神は若宇迦能売命、(相殿)八衢比古命・八衢比売命・久那戸命(『廣瀬神社略誌』)。明治40年に愛宕神社(火産靈命)、浅間神社(木花咲耶姫命)を本殿に合祀している。
また他に大田命、倉稲魂命と伝わり今は白髭明神とする『新撰武蔵風土記稿』や、
大田命、倉稲魂命『神社覈録』という説もある。
『式内社調査報告』には、これらの祭神説のあとに、本来の祭神は廣瀬郷の土着の神ではないかとしている。
参道から境内は東西軸に立地、広い境内。鳥居から社殿まで東面して建つ。境内社は境内の南東隅に稲荷神社と八幡神社、南に霞神社、他石祠の神明宮がある。境内北東部に旧社殿址があり、石碑と古い社号標がある。かつて社殿は南面していた。
旧社殿址

かつて社殿は南面して建っていた。明治42年社殿は現在地に。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間
西武池袋線入間市駅から境内正面まで徒歩約40分。西武新宿線狭山市駅からもほぼ同じ。
参拝者駐車場=おそらくなかった 駐車=バイク△自動車?。
徒歩だと駅から少し距離がある。実測約2.7km
参拝時間は境内社を含めて約10分ほど。