四條畷神社
しじょうなわてじんじゃ
参拝日:2018年6月21日

所在地: |
大阪府四條畷市南野2丁目18-1 [地図] |
御祭神: |
楠正行(小楠公) |
配祀神: |
楠木正時・楠木正家・楠木正家子息・和田賢秀・和田新兵衛・和田紀六左衞門・和田紀六左衞門子息二名・大塚惟久・畠山職俊・畠山六郎・野田四郎・野田四郎子息二名・金岸某・金岸某舎弟・關住良圓・關住良圓子息・三輪西阿・三輪西阿子息・河邊石掬丸・誉田某・阿間了願・青屋刑部 |
公式頁: |
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社格等: |
明治22年別格官幣社
別表神社
建武中興十五社
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2018年6月21日午後の参拝。JR片町線(学研都市線)沿いの神社を少し回ってみようと出発。交野市の
機物神社からの巡拝。JR津田駅からJR四条畷駅まで乗車。14:40頃到着。御朱印は以前に訪れた2010年3月20日の時のもの。
生駒山系飯盛山の西麓の四條畷市にある。JR四条畷駅の北側に四條畷神社へむかう参道が東方向へ伸びている。途中東高野街道と交差するが、その場所に一の鳥居と社号標がある。一の鳥居から10分程歩くと社号標と階段があって境内へ登っていく。
大阪の四條畷と聞くと四條畷合戦を連想する。南北朝時代、楠正成の嫡男楠正行と足利将軍家の高師直が交戦し、北朝方の高師直が勝利、楠正行は弟正時と差し違えて自害した。
自害したとされる場所は近年まで「字ハラキリ」という地名であった。
四條畷神社は楠正行を主祭神とし、弟の楠正時以下24柱の戦没将士を配祠神とする。
創建にあたっては、明治維新に際して当地の住吉平田神社神職や地元住民らによって神社創建を請願、明治22年勅許がくだり、別格官幣社として四條畷神社の社号宣下、翌明治23年創建された。
明治時代、建武新政に尽力した武将や公家を主祭神として創建された15社を建武中興十五社と呼び、当社もその一つに数えられている。
一の鳥居

東高野街道から。
一の鳥居

社号標には「別格官幣社四條畷神社」とある。
参道

600m程ある。
境内参道入口

一の鳥居から10分程。
階段参道

注連縄柱

境内参道

社頭前の鳥居

本社拝殿

本社本殿

御妣神社

本社拝殿の左側に並んで鎮座。摂社。
御妣神社本殿

祭神は楠木正行公の御母堂。
楠天神社

境内参道の右側に鎮座。
有源招魂社

境内参道の右側に鎮座。
正行と母の像

御妣神社の前にある。
桜井の別れの像

境内参道の右側にある。
楠木正行公御墓所
訪問日:2010年3月20日
所在地:
大阪府四條畷市雁谷南町 [地図]
東高野街道の一の鳥居から西に向かいJR片町線四条畷駅北側の踏切を越えてしばらく進むと楠木正行公御墓所がある。南北を走る河内街道(府道162号線)に面しており、道幅は狭いが交通量は多い。東向きに四條畷神社へ向かう道は商店街となっているため人通りも多い。四條畷神社の飛地境内。
余談だが、四條畷市の條は条の旧字体であるため、駅や道路標識などでは「四条畷」と表記されている。また四条畷駅は大東市域に立地している。画像は2010年3月20日に訪問した時のもの。
境内入口

人通りは多いが、墓所へ足を運ぶ人はいない。通り抜け出来ないため生活道路になっていることもない。落ち着いて墓参できる。
拝所

贈従三位楠正行朝臣之墓

墓所全景

墓碑の脇には楠が幹を逞しくしている。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
JR片町線(学研都市線)四条畷駅から東へ約800m、徒歩約15分
参拝者駐車場=祈願者駐車場とあり一般参拝者の可否不明、駐車=バイク△自動車?。
徒歩、バイク、自動車で容易に到着できる。
東高野街道の一の鳥居からの参拝で約40分程度。小楠公御墓所を含めると約1時間。
御朱印は境内に授与所があり常時受け付けているようす。
[作成日]2019年12月27日
[更新日]2019年12月27日
[参考]
・大阪府全志 ・境内由緒書 ・南朝関係十五社巡拝案内記