所在地: | 香川県善通寺市弘田町字鬼塚1105 [地図] | |
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御祭神: | 豊宇氣大神、大龍神、大雷神 | |
公式頁: | ||
社格等: |
貞観元年(859)正月7日
貞観2年(860)5月20日 |
雲気神 従五位下、列於官社 三代実録 雲気神 従五位下、列於官社 三代実録 |
延喜式内社 - 讃岐國多度郡 雲気神社 郷社 |
雲氣神社
くもけじんじゃ
参拝日:2014年11月10日
途中象頭山の姿も自転車を漕ぎながら目に入り、「大麻山登ろうかな~、どうしようかな~」と考えていた。
香川県善通寺市弘田町に鎮座。JR土讃線金蔵寺駅から南西へ直線約2.6km。高松自動車道と国道11号線が交差する辺りの天霧山の東麓の田の中にあり小規模な社。四国霊場第七十二番曼荼羅寺や第七十四番甲山寺も近い。
社名の「雲気」はこの社の神がよく雲気を出し、雨をもたらすことからだという。天霧山と雲気神社、いつでも雨を降らせてくれそうだなぁと思う。
三代実録に神階授与の記事がある「雲気神」と、延喜式内社、讃岐國多度郡雲気神社の論社のひとつ。三代実録には貞観元年と2年のどちらとも「従五位下」の授与となっており、重複か貞観2年は「従五位上」の間違いか。境内由緒書は貞観2年従五位上の昇授としている。
祭神は豊宇氣大神、大龍神、大雷神となっているが諸説ある。豊宇氣大神が祭神であることはよくわからない。「雲氣(うんけ)→うけ→豊宇氣」の転意であろうか。大龍神、大雷神は水神だろうか。
他説として、
・闇龗神、高龗神『全讃史』
・天御中主神『西讃府志』『讃州府志』『讃岐名所図絵』
・「全讃史」「西讃府志」の説をあげつつ、更に水波女神又は大己貴命との伝承『香川縣神社誌』など。
国道11号線と県道217号線の吉原町交差点を南へ、県道217号線が高松自動車道をくぐり東へ向きを変えてすぐの南側に社殿の裏側が見えてくる。田の中にあり、どこから入っていいのか最初はわからないが、東側から境内への道があり、そこから境内全景と背後に天霧山の景色。境内入口には鳥居と社号標。鳥居からすぐに社殿。本殿のまわりは石造りの瑞垣。境内社はない。
境内入口
社号標には「延喜式内社 旧郷社 雲気神社」とある。
参道の鳥居
参道の狛犬
拝殿
入母屋造の拝殿、手前に注連縄柱。
本殿
流造。
境内全景
境内由緒書
式内郷社 雲気神社 縁起
当社は弘田郷の産土神社であり、その社格は郷社である。また延喜式神名帳によれば讃岐国官社二十四社の一とされている。
当社の祭神は、香川県神社誌によれば豊宇気大神、大龍神、大雷神 の三座とされており、また延喜式神名帳の式社考には天御中主尊とある。なお、いずれの祭神におかれましても、その鎮座の年月は不詳である。
当社の神位は、三代実録によれば貞観元年(859年)正月七日に清和天皇より讃岐国従五位下を賜り、翌年五月二十日には讃岐国従五位上に昇階を賜ったと記されている。このことから当社は小社ではあるが、古代においては朝廷の崇敬厚い有力な神社であったことが伺える。
社号の由来は、天霧山よりい出し雲により良く雨が降るとのことから雲気神社と呼ばれたと全讃誌に記されているが、真偽の程は定かではない。
当社の所在については、総本山善通寺伽藍に雲気明神を含む五社明神が祀られており、東寺の文書抄にもこれに係る天喜四年(1056年)の記録がある。また生駒記讃陽綱目の金刀比羅宮の條には、金刀比羅宮が即ち雲気神社であると記されてている。このように当社の所在は諸説あるが天正六年(1578年)長宗我部軍の天霧城侵攻のおり、兵火にかかり社殿が消失したと伝えられており、そのため定かではなく宝暦四年(1754年)に丸亀藩主京極高矩公により雲気神の所在について調査が行われ、当地に社殿が再興されたものである。なお、先公の造営された社殿は、本殿(五尺一寸 一間二尺)、流れ造檜皮葺幣殿(一間四方)、一方切妻造瓦葺拝殿(一間半 三間)、入母屋造瓦葺の三殿であり、神門を備えていたとの記録がある。
祭祀については、京極家において春秋二回執り行われ、藩主自らが公式参拝をされていたと伝えられているが、明治維新後は神社制度も改革され、廃藩の際に弘田村に委ねられ、以来冨頭部落において祭祀を行っている次第である。
なお、当社は往年崇敬者は多く、武運の長久、産業の達成祈願のため遠近の参拝者が後を絶えなかったと伝えられている。
当社は弘田郷の産土神社であり、その社格は郷社である。また延喜式神名帳によれば讃岐国官社二十四社の一とされている。
当社の祭神は、香川県神社誌によれば豊宇気大神、大龍神、大雷神 の三座とされており、また延喜式神名帳の式社考には天御中主尊とある。なお、いずれの祭神におかれましても、その鎮座の年月は不詳である。
当社の神位は、三代実録によれば貞観元年(859年)正月七日に清和天皇より讃岐国従五位下を賜り、翌年五月二十日には讃岐国従五位上に昇階を賜ったと記されている。このことから当社は小社ではあるが、古代においては朝廷の崇敬厚い有力な神社であったことが伺える。
社号の由来は、天霧山よりい出し雲により良く雨が降るとのことから雲気神社と呼ばれたと全讃誌に記されているが、真偽の程は定かではない。
当社の所在については、総本山善通寺伽藍に雲気明神を含む五社明神が祀られており、東寺の文書抄にもこれに係る天喜四年(1056年)の記録がある。また生駒記讃陽綱目の金刀比羅宮の條には、金刀比羅宮が即ち雲気神社であると記されてている。このように当社の所在は諸説あるが天正六年(1578年)長宗我部軍の天霧城侵攻のおり、兵火にかかり社殿が消失したと伝えられており、そのため定かではなく宝暦四年(1754年)に丸亀藩主京極高矩公により雲気神の所在について調査が行われ、当地に社殿が再興されたものである。なお、先公の造営された社殿は、本殿(五尺一寸 一間二尺)、流れ造檜皮葺幣殿(一間四方)、一方切妻造瓦葺拝殿(一間半 三間)、入母屋造瓦葺の三殿であり、神門を備えていたとの記録がある。
祭祀については、京極家において春秋二回執り行われ、藩主自らが公式参拝をされていたと伝えられているが、明治維新後は神社制度も改革され、廃藩の際に弘田村に委ねられ、以来冨頭部落において祭祀を行っている次第である。
なお、当社は往年崇敬者は多く、武運の長久、産業の達成祈願のため遠近の参拝者が後を絶えなかったと伝えられている。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
JR土讃線金蔵寺駅から境内入口まで約3km、徒歩約40分程度。田の中に境内、県道からすぐ。駐車場=なし。
駐車=バイク△、自動車×。
徒歩、バイク、自動車に関わらず容易に到着できる。
参拝は短時間で行える。
境内に社務所はない。御朱印の問い合わせ先も不明。
[作成日]2016年5月24日
[更新日]2016年5月24日
[更新日]2016年5月24日
[参考]
・式内社調査報告 ・古代諸国神社神階制の研究 ・境内由緒書