所在地: | 香川県坂出市府中町本村4760 [地図] | |
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御祭神: | 神櫛別命 | |
公式頁: | ||
社格等: | 貞観元年(859)11月7日 貞観7年(865)10月9日 |
城山神 従五位下 三代実録 城山神 従五位上 三代実録 |
延喜式内社 讃岐國阿野郡 城山神社 名神大 明治5年村社 明治12年郷社 明治36年県社 |
城山神社
きやまじんじゃ
参拝日:2014年11月4日
香川県坂出市府中町に鎮座。JR讃岐府中駅から西北西へ直線約1.2km。城山東麓にあって讃岐国府に近い、城山は古代の朝鮮式山城跡であり、附近は讃岐の中心地として大いに栄えた場所。
三代実録に神階授与の記事がある「城山神」に比定され、延喜式神名帳に記載のある古社。讃岐国の名神大社三社のうちの一社。
創建年は不詳、社伝によれば讃岐国造に任ぜられた景行天皇の皇子神櫛王の死後、その神霊を城山に祀ったことが草創という。創祠の場所は城山の東南隅、城山山頂と現社地を直線で結んだほぼ中間点、明神が鼻とされる。
明神が鼻は仁和4年(888)、菅原道真が讃岐国司として赴任していた時期、未曾有の干魃に対し、この地で降雨祈願を行い成就した。その祈雨祭文は『菅家文草』に残されている。明神が鼻は現在は明神原遺跡とも呼ばれ、城山の中でも特に神聖視されている所。
その後、正平17年(1362)に細川清氏と細川頼之が争った白峰合戦の兵火により焼失、讃岐府中の印鑰という地に遷され、印鑰大明神と称されていた。現在地に遷された時期は定かではない。
祭神は神櫛別命。景行天皇の皇子で讃岐国造の始祖。讃岐公、酒部公はその裔。南海(瀬戸内海?)の悪魚を誅するなど功があり、民から徳を慕われた。悪魚とは海賊であろうか。
南海の悪魚退治は香川県に伝わる讃留霊王伝説で、東讃では神櫛王(景行天皇皇子)、西讃では武殻王(日本武尊皇子)を指し地域差がある。南海の悪魚退治には烏の水先案内が加わっている話し(本島の木烏神社や宇多津の宇夫階神社)もあり、いくつかの類話があるようである。
県道33号線から踏切を渡って城山東麓の道に城山神社への道標がある。そこからすぐに参道の鳥居、鳥居をくぐると城山の姿が見える。少し進むと境内入口と注連縄柱、手前脇に社号標、境内には石畳の参道と拝殿、本殿。参道の鳥居からはほぼ直線、全て東面する。
主な境内社は境内南側に雨請天満宮、社殿北側に四神殿がある。
最初の道標(社号標)
城山東麓の道にある。参道の鳥居
参道と城山
境内入口
社号標と注連縄柱。左側は参拝者駐車場。境内参道と拝殿
右門柱に「延喜」左門柱に「式内」とある。拝殿
入母屋造、千鳥破風唐向拝付き。本殿
春日造、唐向拝付き。社殿
拝殿、弊殿、本殿と序々に高い地に建てられている。渡り廊下は社務所と拝殿をつなぐ。 渡り廊下の向こうの鳥居は四神殿前のもの。
境内
左側の社殿は雨請天満宮。
境内南側に菅原道真の祈雨にちなんだ雨請天満宮、社殿北側に四神殿が鎮座。その他境内入口左側の斜面に階段があり、上がると地神社がある。
『式内社調査報告』には境外末社として福宮神社、須佐之男社、市杵島社、御霊神社、金刀比羅宮、砂野神社の六社があげられる。境外末社には行けていない。
『式内社調査報告』には境外末社として福宮神社、須佐之男社、市杵島社、御霊神社、金刀比羅宮、砂野神社の六社があげられる。境外末社には行けていない。
雨請天満宮拝殿
雨請天満宮本殿
祭神は菅原道真。
四神殿
左から春日社、八幡社、於加美社、入彦大明神。
地神社
讃岐、阿波によく見られる地神社。
神社辞典
城山神社の項
城山神社 香川県坂出市府中町西山。旧県社。
神櫛別命を祀る。神櫛別命は景行天皇の皇子で讃岐公と酒部公の祖である(『新撰姓氏録』)。社伝によると神櫛別命は南海に住む悪魚を退治した勲功により讃岐の国造となり、館を城山に造営されたが120歳で薨ぜられた。よって城山にその霊を斎ぎ祀ったといわれる。
『官社考証』に本社は上古城山の絶頂にあったが、中古兵火にあい印鑰という所に移ったので、印鑰大明神と呼ぶ。のち今の地に移された(『特選神名牒』)ともいう。社地が城山の麓北谷にあるので北谷天神ともいわれる。
貞観元年(859)従五位下を、同7年従五位上に叙せられ、延喜の制、名神大社に列する。
仁和4年(888)讃岐守菅原道真祭文をつくりこの神に雨を請うて、「境内山多けれど茲山独峻し。城中社多なれどこの社尤霊なるときは、八九郷二〇万口の民のため甘雨を降し賜え。しかればおおく玉幣を奉て、応験にむくわん」と祈られた。このことは、つとに名高い。
城山は四国における神籠石の所在地としても知られる。例祭10月9日。
神櫛別命を祀る。神櫛別命は景行天皇の皇子で讃岐公と酒部公の祖である(『新撰姓氏録』)。社伝によると神櫛別命は南海に住む悪魚を退治した勲功により讃岐の国造となり、館を城山に造営されたが120歳で薨ぜられた。よって城山にその霊を斎ぎ祀ったといわれる。
『官社考証』に本社は上古城山の絶頂にあったが、中古兵火にあい印鑰という所に移ったので、印鑰大明神と呼ぶ。のち今の地に移された(『特選神名牒』)ともいう。社地が城山の麓北谷にあるので北谷天神ともいわれる。
貞観元年(859)従五位下を、同7年従五位上に叙せられ、延喜の制、名神大社に列する。
仁和4年(888)讃岐守菅原道真祭文をつくりこの神に雨を請うて、「境内山多けれど茲山独峻し。城中社多なれどこの社尤霊なるときは、八九郷二〇万口の民のため甘雨を降し賜え。しかればおおく玉幣を奉て、応験にむくわん」と祈られた。このことは、つとに名高い。
城山は四国における神籠石の所在地としても知られる。例祭10月9日。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
JR予讃線鴨川駅から境内入口まで約1.5km、徒歩約20分程度。参拝者駐車場=あり。
駐車=バイク〇、自動車〇。
現社地、印鑰明神碑は徒歩、バイク、自動車で容易に到着できる。
境内社を含めて参拝は約20分程度(自転車利用)。
神職は社務所に常駐していないので、御朱印は別途問い合わせが必要。
城山神社旧社地、印鑰大明神碑
訪問日:2014年11月4日
国府印鑰明神遺跡の石碑
田の中にあり、城山を望む。撮影者の後ろにはJRの線路。
城山神社旧社地、明神原遺跡
訪問日:2014年11月4日
所在地:香川県坂出市府中町 [地図]
国府印鑰明神遺跡から予定通り城山へ登ることにした。城山山頂へ鴨川駅近くの県道188号線で明神原遺跡、山頂を目指す。ここまで温存していた電動アシスト車のバッテリーをフル稼働した。天気が良くて汗まみれになりながら途中一度「あーやめようかな」と思ったが、電動車の坂道の一押しはかなり効果的で、なんとか明神原遺跡にたどりついた。登っている最中、バッテリー残量はみるみる減っていった。
印鑰明神遺跡の石碑から明神原遺跡の入口まで約45分で到着。
国府印鑰明神遺跡から予定通り城山へ登ることにした。城山山頂へ鴨川駅近くの県道188号線で明神原遺跡、山頂を目指す。ここまで温存していた電動アシスト車のバッテリーをフル稼働した。天気が良くて汗まみれになりながら途中一度「あーやめようかな」と思ったが、電動車の坂道の一押しはかなり効果的で、なんとか明神原遺跡にたどりついた。登っている最中、バッテリー残量はみるみる減っていった。
印鑰明神遺跡の石碑から明神原遺跡の入口まで約45分で到着。
明神原遺跡の入口
明神原遺跡の石祠と巨石群
明神原遺跡の巨石群
明神原遺跡の巨石群
明神原遺跡の巨石群
城山山頂からの眺望
明神原遺跡から約1.5kmで山頂。しんどかったが登ってヨカッタ。
入口案内板
史跡城山 明神原遺跡
ここ城山の東南に突出するこの山は明神原と呼ばれ、山頂の南側に鳥帽子岩といわれる巨石を正面に、その南左右に巨石がならび立ち、中央は階段状に見える平坦空地がある。
古代、農業によって村造りが行われた頃、部落を見下す山頂の巨石・大木を憑代として、天より降臨する神霊を招き迎えて豊饒を祈る祭祀が行われたが、この明神原の巨石群は、その配置から神を迎え祭祀を行う磐境であり、烏帽子岩は神霊の憑りつく磐座と考えられる。伝えによれば、仁和4年讃岐旱魃の時、国守菅原道真公が城山神に雨を祈ったのはここであり、延喜式内社城山神社は、もとこの地に祈られていたと云う。
また城山築城後はその守護神として祭祈されたと考えられ、古代祭祀研究上貴重な遺跡である。
ここ城山の東南に突出するこの山は明神原と呼ばれ、山頂の南側に鳥帽子岩といわれる巨石を正面に、その南左右に巨石がならび立ち、中央は階段状に見える平坦空地がある。
古代、農業によって村造りが行われた頃、部落を見下す山頂の巨石・大木を憑代として、天より降臨する神霊を招き迎えて豊饒を祈る祭祀が行われたが、この明神原の巨石群は、その配置から神を迎え祭祀を行う磐境であり、烏帽子岩は神霊の憑りつく磐座と考えられる。伝えによれば、仁和4年讃岐旱魃の時、国守菅原道真公が城山神に雨を祈ったのはここであり、延喜式内社城山神社は、もとこの地に祈られていたと云う。
また城山築城後はその守護神として祭祈されたと考えられ、古代祭祀研究上貴重な遺跡である。
[作成日]2016年5月11日
[更新日]2016年5月11日
[更新日]2016年5月11日
[参考]
・式内社調査報告 ・古代諸国神社神階制の研究 ・神社辞典 ・境内由緒書 ・明神原遺跡入口案内板