所在地: | 山口県下関市一の宮住吉1-11-1 [地図] | |
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御祭神: |
表筒男命・中筒男命・底筒男命の荒御魂(西第一殿) 応神天皇(西第二殿) 武内宿禰命(中第三殿) 神功皇后(東第四殿) 建御名方命(東第五殿) |
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公式頁: | ||
社格等: |
貞観元年(859)正月27日 貞観17年(875)10月8日 貞観17年(875)12月5日 仁和2年(886)11月14日 寛平3年(891)8月21日 |
住吉荒魂神 従五位上 三代実録 住吉荒御影神 正五位下 三代実録 住吉荒魂神 従四位上 三代実録 住吉荒魂神 正四位下 三代実録 住吉荒魂神 正四位上 日本紀略 |
延喜式内社 長門國豊浦郡 住吉坐荒御魂神社三座 並名神大 長門国一宮 明治4年国幣中社 明治44年官幣中社 別表神社 |
住吉神社
すみよしじんじゃ
参拝日:2014年7月27日
山口県下関市一の宮住吉に鎮座。参道入口の鳥居をくぐると反橋があり、その先の階段を上がると朱塗りの楼門、すぐに拝殿、唐門と透塀に囲まれた本殿。施設はすべて南面して建てられている。
『日本書紀』に創祀について書かれている。
仲哀天皇が橿日宮にある時、神功皇后に神託があり、「熊襲を討つよりは新羅を服属させよ、わたしを祀れば新羅は服属するだろう。そうすれば自然と熊襲も従うだろう。祀りをするには、天皇の船と穴門直踐立の献上した大田という水田を神に捧げよ」と。この神は表筒男・中筒男・底筒男と名乗った。
仲哀天皇はこの神の言葉を信用しなかったため病気になり崩御した。神功皇后はこの神の言に従って新羅を討つことを決意すると、「和魂は王身に従って命を守り、荒魂は先鋒として軍船を導こう」との神託を得た。
新羅との戦いに勝利し、凱旋した神功皇后に、「我が荒魂を穴門の山田邑で祀るよう」神託があり、当社に祀るようになり、穴門直の祖である踐立を神主と定めたとある。
住吉三神(表筒男命・中筒男命・底筒男命)の荒御魂を主祭神として第一殿に祀る。第二殿以降の創祀時期については文献によって若干相違がある。『式内社調査報告』が引く文献別の一覧は以下の通り。
文献 | 第二殿 応神天皇 | 第三殿 武内宿禰命 | 第四殿 神功皇后 | 第五殿 建御名方命 |
住吉開基造営等之覚書 | 後世に祀る、年代不詳 | |||
長門国一宮略記 | 神亀3年(726)、神託により祀る | 承平2年(932)より祀る | 神亀3年(726)、神託により祀る | 承平2年(932)より祀る |
長門国志 | 聖武天皇の神亀年中、筑前国より勧請 | 勧請年代不詳 | 聖武天皇の神亀年中、筑前国より勧請 | 勧請年代不詳 |
三代実録の貞観元年、住吉荒魂神に従五位上奉授の記事があり、これが文献上の初見。延喜式では長門國豊浦郡住吉坐荒御魂神社三座が名神大社に列格している。中世一宮制がはじまると長門国一宮として崇められ、平安時代後期の藤原為隆の日記『永昌記』には「長門一宮神宮司別当僧侶」との記述が見える。
中世に入ると大内氏、中世から江戸期には毛利氏の崇敬を受けた。明治4年に国幣中社、明治44年に官幣中社に列格した。
当社の本殿は応安3年(1370)大内弘世による再建で国宝。九間社流造、五座に仕切られて相の間で接続、正面5か所に千鳥破風、檜皮葺。本殿内部には入母屋造妻入檜皮葺の玉殿が五基あって、本殿と同時に造営されたものという。
本殿はいま南面しているが、再建される前は西面していたという説がある。祭神の「筒男」の名称の起源について、いくつかの説の中に対馬の豆酘(つつ)の神というものがある。もし西面していたのなら、当社から響灘を越えた西方向には対馬南部の豆酘があって、それを意識していたのかも。
境内入口
境内入口の鳥居と社号標
参道の反橋
楼門への階段
楼門
楼門から拝殿
楼門の十二支方位盤
拝殿
切妻造妻入り檜皮葺。天文8年(1539)毛利元就の造営。拝殿
舞殿風でもある。本殿の破風は第三殿、第四殿のもの。拝殿の社号扁額
有栖川宮幟仁親王の筆。「住吉荒魂本宮」とある。本殿前の唐門
本殿(第一殿、第二殿、第三殿)
第三殿のみ破風の裾の広がりが若干狭いように見える。画像では角度でそう見えるのかな。。本殿(第三殿、第四殿、第五殿)
応安3年(1370)大内弘世による再建。国宝。本殿
透塀に囲まれた九間社流造、正面5か所に千鳥破風、檜皮葺、圧巻の本殿。
境内社は『式内社調査報告』によると若宮神社、天神社、恵美須社(以上摂社)、打下社、稲荷社、田尻社、七社、検非使社、妥女社、厳島社、貴船社、高元社(以上末社)がある。
わかる範囲で回っているので、参拝順に掲載してみる。
厳島社
境内入口の鳥居をくぐった左側。厳島社
祭神市杵島姫命。境内社の鳥居
額束におそらく「蛭子神」とある。「御子神」ではないと思う。本社社殿の東側に二宇並んでいる。合殿の境内社
右から二十二社の上七社を祀る七社(伊勢、八幡、加茂、春日、松尾、平野、稲荷)、蛭子社(事代主神・蛭子神)、田尻社(大宮司家祖神)、若宮社(穴戸直践立命)。高元社
祭神須佐之男命。『式内社調査報告』には境外社になっているが、境内に遷座したのだろう。稲荷社
祭神宇賀御魂命・大宮乃売命・猿田彦命。高元社の背後にある。検非違使社
祭神火須勢里命。武内宿禰お手植えの楠
樹齢2000年ともいわれる。
ということで采女社、打下社(相殿の天神社、貴船社)には行けていない。境内入口の鳥居から東へ200mの所に鳥居があり、それを登っていくと打下社。下調べ不足でザンネン。
西参道入口
西参道入口
参拝を終えて新下関駅に向かう途中に鳥居を見つけたので立ち寄ってみると当社の史跡だった。県道34号線沿いにある。
山口県下関市一の宮本町 [地図]
山口県下関市一の宮本町 [地図]
濁池
由緒書
神功皇后は、新羅に遠征されるにあたって、七夜八日にわたり斎戒して、住吉大神に戦勝をお祈りになった。この故事により、住吉神社では千数百年このかた「お斎祭(おいみさい)」が行われている。十二月八日の夜から一週間、神職は一歩も社外に出ることなく物忌をして、ご神宝ご装束の調整にあたる。そして一般の人人の参拝祈願も受けつけず、昔ながらの謹慎、物忌習慣を守ってきた。この物忌のありさまを視察するため、大神は海浜までお出御になり、お還御(おかえり)の時、この池で白馬の脚を洗われた。そのために、清冽な水を湛えていた池が濁ったので濁池の名がつけられたと伝えられている。今は水が枯れているが、昔は住吉の森から流れ出る、清らかな水田用水の溜池であったという。
神社辞典
住吉神社の項
山口県下関市一ノ宮町。本殿の周囲は4000平方メートルの原始林の社叢をなしている。旧官幣中社 (現、別表神社)。
応安三年(1370)大内弘世の造営と伝えられる本殿(国宝)は、 一間社を 五殿、合之間とともに横に建て連ねた珍しい形式である。その第一殿に表筒男命・中筒男命・底筒男命の荒魂を主神として祀り、第二殿に応神天皇、第三殿に武内宿禰命、第四殿に神功皇后、第五殿に建御名方命を祀っている。当社の創祀については、『神功皇后紀』に「表筒男・中筒男・底筒男三神、皇后に誨へて日はく、我が荒魂をば穴門の山田邑に祭らしめよと。・・・・・・則ち践立を以て荒魂を祭る神主と為し、仍りて祠を穴門の山田邑に立つ」と記されている。
貞観元年(859)従五位下より従五位上が授けられたのをはじめに、仁和2年(856)には正四位下が授けられた。『延喜式神名帳』には、名神大社として「住吉坐荒御魂神社三座」と記され、祈年の国幣及び名神祭に預かった。また長門国一の宮として篤い尊崇を集めた。
鎌倉時代に入り、源頼朝をはじめ、歴代将軍による社領の寄進等があり、神事も年間150度以上も行われたという。戦国時代に入り、一時衰微した時もあったが、大内氏、毛利氏等の崇敬篤いものがあり、江戸時代になってからは、藩主毛利氏によって、累代社殿の造営、修復等が行われた。明治4年(1871)国幣中社となり、同44年官幣中社に昇格した。
例祭12月15日。それ以前、8日より15日朝まで御斎祭が行われる。この間は、境内に七五三縄がはりめぐらされ、一般の人は参拝できず、神職も境内より一歩も出ない厳重な祭である。特殊神事としては、旧正月に和布刈祭が行われる。旧正月の未明、壇の浦の海中よりわかめを刈り、神前に供える祭で、 一般の人には見せない神秘な神事である。他に5月の第3日曜日には、御田植祭が行われる。
応安三年(1370)大内弘世の造営と伝えられる本殿(国宝)は、 一間社を 五殿、合之間とともに横に建て連ねた珍しい形式である。その第一殿に表筒男命・中筒男命・底筒男命の荒魂を主神として祀り、第二殿に応神天皇、第三殿に武内宿禰命、第四殿に神功皇后、第五殿に建御名方命を祀っている。当社の創祀については、『神功皇后紀』に「表筒男・中筒男・底筒男三神、皇后に誨へて日はく、我が荒魂をば穴門の山田邑に祭らしめよと。・・・・・・則ち践立を以て荒魂を祭る神主と為し、仍りて祠を穴門の山田邑に立つ」と記されている。
貞観元年(859)従五位下より従五位上が授けられたのをはじめに、仁和2年(856)には正四位下が授けられた。『延喜式神名帳』には、名神大社として「住吉坐荒御魂神社三座」と記され、祈年の国幣及び名神祭に預かった。また長門国一の宮として篤い尊崇を集めた。
鎌倉時代に入り、源頼朝をはじめ、歴代将軍による社領の寄進等があり、神事も年間150度以上も行われたという。戦国時代に入り、一時衰微した時もあったが、大内氏、毛利氏等の崇敬篤いものがあり、江戸時代になってからは、藩主毛利氏によって、累代社殿の造営、修復等が行われた。明治4年(1871)国幣中社となり、同44年官幣中社に昇格した。
例祭12月15日。それ以前、8日より15日朝まで御斎祭が行われる。この間は、境内に七五三縄がはりめぐらされ、一般の人は参拝できず、神職も境内より一歩も出ない厳重な祭である。特殊神事としては、旧正月に和布刈祭が行われる。旧正月の未明、壇の浦の海中よりわかめを刈り、神前に供える祭で、 一般の人には見せない神秘な神事である。他に5月の第3日曜日には、御田植祭が行われる。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
JR山陽本線新下関駅から南東へ直線約1km、徒歩約20分参拝者駐車場=あり、駐車=バイク〇自動車〇。
徒歩、バイク、自動車で容易に到着できる。
参拝は約30分程度。
御朱印は授与所で常時受付。
[作成日]2019年12月20日
[更新日]2019年12月20日
[更新日]2019年12月20日
[参考]
・式内社調査報告 ・日本の神々 ・神社辞典 ・境内由緒書