所在地: | 奈良県桜井市穴師1065 [地図] |
---|---|
御祭神: | 兵主神・若御魂神・大兵主神 |
公式頁: | |
社格等: |
貞観元年(859)2月朔日 穴師兵主神 正五位上 勲八等 三代実録 貞観元年(859)2月朔日 巻向若御魂神 従五位上 三代実録 |
延喜式内社 大和國城上郡 穴師坐兵主神社 名神大 月次相嘗新嘗 延喜式内社 大和國城上郡 巻向坐若御魂神社 大 月次相嘗新嘗 延喜式内社 大和國城上郡 穴師大兵主神社 明治6年郷社 昭和3年県社 |
穴師坐兵主神社
あなしにいますひょうずじんじゃ
参拝日:2011年5月25日
天理市域の水口神社から国道169号線をふたたび南へ戻り、辻北交差点を東方向、山手に向かって進んでいくと穴師坐兵主神社の鳥居がある。12:40頃の到着。
奈良県桜井市穴師に鎮座。大和國城上郡の式内社である穴師坐兵主神社、巻向坐若御魂神社、穴師大兵主神社の三社が合祀されている。現社地は元は穴師大兵主神社の鎮座地。中世に穴師坐兵主神社、巻向坐若御魂神社が合祀されて現在に至る。
穴師坐兵主神社は穴師大兵主神社と上下二社形態の社であったらしい。穴師坐兵主神社の元の鎮座地は穴師山、平野山、弓月岳などとあるがはっきりしていない。応仁(1467-1469)の頃に上社(穴師坐兵主神社)が焼失したので、下社(穴師大兵主神社)に合祀されたと伝わり、同時期に同じく巻向山中にあった巻向坐若御魂神社も下社に合祀された。巻向坐若御魂神社の旧地も不明。
いまの社殿は明治7年に再建、中央の社が穴師坐兵主神社、左側の社が穴師大兵主神社、右側の社が巻向坐若御魂神社とした。
穴師坐兵主神社の国史の初見は三代実録の貞観元年(859)2月穴師兵主神に正五位上奉授の記事があり、延喜式では名神大社で月次相嘗新嘗の幣帛に預かっていた。
祭神は兵主神。兵主は『史記』の八書のうちの『封禅書』にある記述から軍事を司る神とされ、兵主神は軍神としての大国主命をさすという説がある。
穴師大兵主神社は国史の記載はなく延喜式では小社。
祭神は大兵主神。穴師上下二社であったことから、大国主命の祖神の素戔嗚尊にあてる説がある。
巻向坐若御魂神社は国史の初見は三代実録の貞観元年(859)2月穴師兵主神に従五位上奉授の記事があり、延喜式では大社で月次相嘗新嘗の幣帛に預かっていた。
祭神は若御魂神。『特選神名蝶』では稚産霊としている。
境内由緒書には穴師坐兵主神社は御食津神、穴師大兵主神社は武勇の神で相撲の祖神、巻向坐若御魂神社は稲田姫命、と異なる祭神をあげている。
ところで兵主神社という社名は式内社で最も多い。特に集中しているのが但馬国で、渡来神とされる兵主神と但馬地域の天日槍伝承を結びつけて、天日槍を祖神とする氏族が奉斎したのが兵主神であるという説がある。
応仁(1467-1469)の頃に焼失した上社(穴師坐兵主神社)の旧地について、箸墓古墳と斎槻岳(弓月岳)の位置関係から推測した説がある。箸墓古墳から見て斎槻岳の直線上にいまの穴師坐兵主神社があって、上社(斎槻岳)もこの直線の延長線上にあったとするもので、箸墓から見て斎槻岳から登る日の出の方角に穴師上下社も鎮座していたとする。いま地図の等高線だけで判断すると、どうやらこの地点かなと推測した。箸墓古墳から見ると峰が二つある山で、左側の峰だと思う。
鳥居
樹木が無造作に茂り、鳥居前を覆っていた。社号標は「大兵主神社」になっている。拝殿
拝殿
石灯籠が良い!拝殿
拝殿と本殿の屋根
全体は見通せないが、三連の本殿だとわかる。うつくしい。本殿
千鳥破風、唐向拝付きの流造だとわかる。
『式内社調査報告』によると、境内社に須佐男神社・奇稻田姫神社・水神社・祓戸神社・八王神社・祖霊社がある。見つけた限りで撮影したが、表札がないものもあり、それぞれあてることができなかった。詳細不明社が6社あり、上記6社に該当するのかもしれない。参拝した順に掲載してみる。
出雲大神
少祠ながら大社造り。境内社
3社並んでいるが詳細不明。境内社
詳細不明。境内社
詳細不明。天王社
境内社
詳細不明。交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
最寄り駅はJR桜井線巻向駅、東へ直線距離で約1.5km。参拝者駐車場=あり 駐車=バイク〇、自動車〇。
徒歩、バイク、自動車で容易に到着できる。
参拝は10分程度。
御朱印は未確認。要事前確認。
[作成日]2019年12月15日
[更新日]2019年12月15日
[更新日]2019年12月15日
[参考]
・式内社調査報告 ・古代諸国神社神階制の研究 ・日本の神々