所在地: | 大阪府守口市佐太中町7丁目16-25 [地図] |
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御祭神: | 菅原道真 |
公式頁: | |
社格等: | 明治5年村社 菅公聖蹟二十五拝の一社 |
佐太神社(佐太天神宮)
さたじんじゃ
参拝日:2014年6月23日
守口市佐太中町に鎮座。京阪電鉄寝屋川駅駅の西約3kmの地点。境内入口の正面は国道1号線で、交通量はとても多く、ビュンビュン飛ばす車が鳥居の前を通り過ぎる。
鳥居は西向き、淀川の方角を向いている。淀川左岸の堤防は京街道であり、街道からの参道の名残が見受けられる。また対岸へは佐太の渡しと呼ばれた渡し船があった。
境内由緒書によれば、菅原道真は太宰府左遷の旅の道中、自身の荘園である当地に滞留したとされる。その後当地を出立する際に自身の木像、自画像などを残したという。そして道真の死後50年にあたる天暦年間(947-957)、道真の残した木造を祀った祠の建立を創建としている。
室町時代には大庭荘の惣社として近隣民の崇敬を受けた。
淀川左岸堤防からも境内入口の鳥居を見ることが出来る。鳥居から舗装された参道を進んでいくと、左手にいくつかの境内社が立ち並ぶ。その先の神門をくぐると境内は南北に広がり、その先に拝殿があり、本殿へ続く。鳥居、神門、社殿全て若干北寄りの西面。
境内社は参道の他、境内にも点在している。
現在の社殿は初代淀藩藩主永井尚政と豪商淀屋が関わっている。これは拝殿の改修時に慶安年間(1648-1652)の寄進者が書かれた額が発見され、淀屋の名前が永井氏と同サイズで書かれており、両氏が社殿改修に大きく寄与している。
淀藩永井氏は菅原道真の崇敬著しく、淀藩領であった守口市門真市の神社には、永井氏による菅原道真の合祀の例が多くある。その中で永井氏の当社への崇敬は大きいものであった。
当社は「佐太天神宮」の通称名がよく知られ、菅原道真の由緒深い社として「菅公聖蹟二十五拝」の内の一社に数えられている。
京街道(淀川左岸堤防)からの参道と鳥居
淀川堤防からの参道。町工場などがあり、参道の雰囲気は無い。そんな中、鎮守の杜はひときわ目立つ。
一の鳥居
国道1号線に面している一の鳥居。左側に佐太天神宮と刻まれた社号標。右側には街道の道標、万延元年銘。京街道と小坂街道との分岐に建っていたものか。鳥居前の交通量はとても多い。当社は守口市と寝屋川市の境界上に位置しており、社号標の位置が寝屋川市域か微妙なところ。
参道と二の鳥居
一の鳥居から拝殿までは一直線。気持ちがいい参道である。その途中にある二の鳥居。参道脇の石灯籠群は明和・寛政など18世紀のものが並ぶ。右側が駐車場。
神門
参道から社殿へは神門が配されて、その区画分けをしている。右側の石灯籠は元禄5年(1692)、左側は享保12年(1727)、神門の石の枠組みには慶安元年(1648)の銘がある。
拝殿
淀藩主永井尚政と豪商淀屋が関わった拝殿は慶安元年(1648)の造営。
入母屋造りで唐破風がつき、四方を庇が囲む。拝殿前の石灯籠には天明4年(1784)銘。また「菅公聖蹟二十五拝 第九番 佐太天神宮」の石碑がある。
拝殿の天神縁起絵巻
拝殿をきらびやかに飾る天神縁起絵巻。
本殿
弊殿と切妻造平入の本殿。寛永17年(1640)に造営。
本殿、後方から
社殿全景、後方から
境内社は参道脇、拝殿周囲に点在する。
愛宕社
二の鳥居と神門の間、参道左側に鎮座。
稲荷社
二の鳥居と神門の間、参道左側に鎮座。
白太夫社
神門をくぐって左側。手水舎の後方に鎮座。
戎社
社殿脇の像には「佐太の戎さん」の文字。拝殿の北側に鎮座。
牛社
天満宮、天神社にはおなじみの臥牛の像。神門をくぐって右側。
御旅所
一の鳥居と二の鳥居の間、参道左側にある。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
京阪電鉄本線寝屋川市駅から西方向、直線距離で約3Km、徒歩約40分。京阪電鉄守口市駅または寝屋川市駅から京阪バスを利用することになる。佐太天神停留所下車すぐ。直通は守口市駅発のみだが、寝屋川市駅から仁和寺停留所下車でも徒歩圏内。
また当社は京街道沿いにあるので、京阪守口市駅から街道散策がてらの徒歩もいいし、更に時間がある場合には、京阪京橋駅から、街道沿いの史跡を辿ってみるのもいい。枚方宿までは一日コースで歩けるだろう。
参拝者駐車場=あり。駐車=バイク〇、自動車〇。
バイク、自動車では容易に到着できる。徒歩は若干の距離がある。
参拝は境内社を含めて約30分程度。
社務所の常駐は未確認。御朱印は要事前確認。
[作成日]2016年11月18日
[更新日]2016年11月18日
[更新日]2016年11月18日
[参考]
・境内由緒書 ・大阪府神社庁第三支部ホームページ