所在地: | 京都府亀岡市上矢田町上垣内22-2 [地図] |
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御祭神: | 大己貴命・誉田別命 |
公式頁: | http://www.kuwayama-jinjya.jp |
社格等: |
延喜式内社 丹波國桑田郡 鍬山神社 明治6年郷社 昭和3年府社 |
鍬山神社
くわやまじんじゃ
参拝日:2011年7月10日
京都府亀岡市上矢田町上垣内にある延喜式内社。亀岡の市街地から真南にあたり、そばを通る県道は清阪街道といわれていた道で亀岡と大阪の茨木市を結び、樫田から分岐する道は高槻市と通じ、こちらは真上街道といわれていた道。当社から北西方向の京都縦貫道沿いに古墳群がいくつかあり、当社から東方向には奈良時代から平安時代にかけての篠窯跡群があり、古代より開発されてきた地域。
社伝によると、上古出雲大神が八神を率いて各国を巡察し国造りをしている時、亀岡盆地は泥湖であったので、八神と黒柄山で話し合い、浮田の峡(いまの保津峡)を出雲大神自ら鍬を取って開削し、水を山城国へ流して肥沃な耕地を造ったと伝え、民衆はその神徳を敬い、天岡山の麓に出雲大神(大己貴命)を祀ったのが創祀。開拓に使った鍬が山のように高く積みあがったことから、鍬山の社号になったともいわれている。
また創建は和銅2年(709)、当初の鎖座地は当社の北西約800mの医王谷であったという。医王谷は平安時代中期の医家で丹波宿禰の姓を賜わった丹波康頼が住んでいたという説があり、丹波康頼は当社を崇敬したと言われている。また当地を領していた丹波康頼が、楽田・油田・華田・八日田・相撲田・馬場田・雑用田・奉射田の八種の田を献じたので、八田→矢田になったとも。
医王谷から現在地へいつ遷ったのかは定かにないが、寛正3年(1462)の棟札が残っているので、この時期にあてる説や、慶長15年(1610)亀山城主岡部氏によって鍬山宮と八幡宮が並び建つように造営をした時期とする説がある。
八幡宮がいつ祀られるようになった時期は定かではなく、社伝によれば永万元年(1165)天岡山に降臨し、鍬山宮のそばに祀ったところ夜毎に雷雨があり、ある時には鳩と兎が多く死んでいたので鳩(八幡神)と兎(出雲神)は不和であるとして、村人は八幡神を杉谷に遷し祀ったという。
慶長15年の両社殿造営にあたっては、この説話に基づいて両社の間に池を設けたとされる。
県道沿いの鳥居から80mほどの地点に駐車場入口があり、そこから道路と境内が並行している。境内入口からさらに30mほどの場所に鳥居があって左側に行くと本社社殿、右側に行くと境内社の区画。神橋をわたると拝殿があり、その後方に透塀に囲まれて、同規模の本殿が二棟並んでいる。左側が本社である鍬山宮、右側が八幡宮。
県道沿いの鳥居
写っていないが画像の左側に社頭をバイパスする県道6号線。いつ開通したのかは調べていない。見えている道が鍬山神社への道でかつての本線。境内参道の鳥居
ここまで道路と並行する形で砂利の境内を進む。鳥居の扁額
社号標
鳥居の脇にあるが、少し離れているので目立たない。式内鍬山神社とある。境内参道と神橋
神橋で川を渡る。拝殿
拝殿内の地面が砂地になっていて珍しい。盛砂がしてあった。本殿入口(鍬山宮)
向かって左側の本宮鍬山宮。本殿入口(八幡宮)
向かって右側の八幡宮。本殿(鍬山宮)
瑞垣に囲まれ並ぶ両本殿。流造りに千鳥破風、長く延びた唐向拝が印象的。双方ほぼ同じ造りに見える。本殿(八幡宮)
八幡宮側から。間にあるという池は見れていない。両社の大きな違いはぱっと見たところ、向拝頂部瓦の紋と装飾(鍬山宮→兎、八幡宮→鳩)ぐらいしか判別できなかった。
道路から境内に入り鳥居をくぐった右側の砂利が敷かれている区画に境内社が固まっている。あと社殿の北側に池があり、そこに弁財天社があるが、見逃していて行けていない。以下、参拝した順に掲載してみる。
境内社
右側から熊野神社、日吉神社、高樹神社、樫船神社、金山神社。
稲荷神社・疱瘡神社
二社合殿社。安産石と少祠
少祠の詳細不明。水分神かも。
愛宕神社
天満宮
百太夫神社
境内由緒書
鍬山神社 鍬山宮(主神)
御祭神 大己貴命(大国主命)
伝説によると、神代の昔、丹波の国は泥沼の水の底に沈み、里人の生活は厳しいものであった。大己貴命(大国主命)、大山咋神以下八柱の神を黒柄獄に神集いされて話し合い、樫田の地より樫船に乗り一把の鍬を挙げ、保津請田あたりを切り拓き、湖水を干拓して肥沃な農地とした。里人は神穂を尊び、また、使った鍬が山積みしたことにより、鍬山神社と名付け、この地に祀られたと伝えられている。
当社は国初より鎮座し、延喜式内の旧官社である神代鎮座の霊場として、大宝の神籍に編入せられて、和銅2(709)年社殿を建立と伝えられる。
寛正年間の棟札が現存し、現在の檜皮葺きの権現造の社殿は、八幡宮と同じく文化11年の官営である。(京都府登録文化財)
鍬山神社 八幡宮(客神)
御祭神 誉田別命(應神天皇)
永萬元(1165)年5月8日天岡峰上に戒衣を着、弓矢を執る神人が天下られ、その託宣により本宮(鍬山宮)の相殿に祀られたと伝えられる。しかしそれ以後毎夜雷雨が起こり、戦闘殺伐の声空中聞え、明け方境内に鳩と兎の死骸が多く、里人は両神の不仲によるものとそれぞれ二棟の本殿に分けて祀ったと伝えられる。
現今の檜皮葺きの権現造の社殿は本宮鍬山宮と同じく文化11年の官営である。(京都府登録文化財)
八幡大神の影向石(天下り岩)が、天岡山北赤子谷の上にあり、阿闍梨寛純師が建立。三上龍山が銘文を記している。
御祭神 大己貴命(大国主命)
伝説によると、神代の昔、丹波の国は泥沼の水の底に沈み、里人の生活は厳しいものであった。大己貴命(大国主命)、大山咋神以下八柱の神を黒柄獄に神集いされて話し合い、樫田の地より樫船に乗り一把の鍬を挙げ、保津請田あたりを切り拓き、湖水を干拓して肥沃な農地とした。里人は神穂を尊び、また、使った鍬が山積みしたことにより、鍬山神社と名付け、この地に祀られたと伝えられている。
当社は国初より鎮座し、延喜式内の旧官社である神代鎮座の霊場として、大宝の神籍に編入せられて、和銅2(709)年社殿を建立と伝えられる。
寛正年間の棟札が現存し、現在の檜皮葺きの権現造の社殿は、八幡宮と同じく文化11年の官営である。(京都府登録文化財)
鍬山神社 八幡宮(客神)
御祭神 誉田別命(應神天皇)
永萬元(1165)年5月8日天岡峰上に戒衣を着、弓矢を執る神人が天下られ、その託宣により本宮(鍬山宮)の相殿に祀られたと伝えられる。しかしそれ以後毎夜雷雨が起こり、戦闘殺伐の声空中聞え、明け方境内に鳩と兎の死骸が多く、里人は両神の不仲によるものとそれぞれ二棟の本殿に分けて祀ったと伝えられる。
現今の檜皮葺きの権現造の社殿は本宮鍬山宮と同じく文化11年の官営である。(京都府登録文化財)
八幡大神の影向石(天下り岩)が、天岡山北赤子谷の上にあり、阿闍梨寛純師が建立。三上龍山が銘文を記している。
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
JR山陰本線亀岡駅から南へ約2.3km。亀岡駅からバスがある。参拝者駐車場=あり、駐車=バイク〇自動車〇。
亀岡駅から徒歩約40分。
参拝は県道沿いの鳥居を含めて約20分ほどの見込み。
境内には社務所がある。御朱印は在宅なら受け付けていると思われる。
[作成日]2020年01月16日
[更新日]2020年01月16日
[更新日]2020年01月16日
[参考]
・式内社調査報告 ・南桑田郡誌 ・大日本地名辞書 ・日本の神々 ・境内由緒書