八百万のかみのやしろ巡り(仮)
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阿伎留神社

あきるじんじゃ

参拝日:2017年4月10日

阿伎留神社
所在地: 東京都あきる野市五日市1081 [地図]
御祭神: 大物主神、(相殿)味耜高彦根神・建夷鳥神・天児屋根命
公式頁:
社格等: 貞観6年(862)7月27日
貞観7年(863)12月26日
元慶8年(884)7月15日
若雷神 従五位上 三代実録 境内社若電神社
伊多之神 従五位上 三代実録 境内社伊多弖神社
畔切神 従四位下 勲六等 三代実録
延喜式内社 武蔵國多磨郡 阿伎留神社
明治6年郷社

 
 2017年4月10日午後の参拝。山口の中氷川神社からの巡拝。
 JR箱根ヶ崎駅からはレンタサイクルで巡っており、狭山丘陵周辺の予定していた神社を山口の中氷川神社で終えたので、そこからJR箱根ヶ崎駅に戻った。途中目を付けていた山田うどんで腹ごしらえ、テレビ番組で埼玉県民御用達みたいな紹介をされていたので食べてみたのだ。リーズナブルで満足できた。
 JR箱根ヶ崎駅でレンタサイクルを返却し、阿伎留神社に向かうべくJR八高線で拝島駅へ、さらにJR五日市線で武蔵五日市駅へ。
 山口の中氷川神社から2時間20分後の15:40頃到着。山口の中氷川神社のあと、急に時間が進んだような感じで、そろそろ打ち止めかなと思い始める時間帯。

 東京都あきる野市五日市に鎮座。西から流れ込む秋川が大きく蛇行し、その左岸の河畔から段丘の上にある。JR五日市線武蔵五日市駅から南西へ直線約900m。

 延喜式神名帳に記載のある古社。他に論社もなく、同名社も存在しない。式内阿伎留神社としてほぼ間違いないと思われる。また三代実録にも元慶8年畔切神従四位下昇授の記事がある畔切神は当社のこととされる。畔切は畔を切り、田を開くとの意があるともいうが定かではない。
 また当社によれば、境内社の若電神社は三代実録に貞観6年従五位上の昇授記事のある「若雷神」、伊多弖神社は三代実録に貞観7年従五位上の昇授記事のある「伊多之神」であると主張している。

 社伝によれば崇神天皇の御宇に創建とも、あるいは神職の家系伝によると初代神主を土師連男鹽といい、仲哀天皇の御宇の頃の人というので、その頃の創建であるとの説もある。
 土師連男鹽は天穂日命の十七世の後裔で武蔵国造であるとも家系伝は言うが、武蔵国造が多磨郡の西端に居住していたとは考えにくく、土師連が武蔵国造と祖を同じくすることから生じたとも。

 また藤原秀郷が平将門を討伐するにあたり、山城国乙訓郡小鹽山の大原野神社の神霊を武蔵国内の有勲の大社に合祭したならば目的が果たせるとのお告げにより、当社が選ばれて小鹽山の土を畔切宮に移し、大原野神社の神を勧請し、東国鎮護を祈願した。以降当社を小鹽宮とも称し、小鹽の地名の起源ともなったという。

 中世以降は武将の崇敬が厚く、源頼朝、足利尊氏、北条氏康、徳川家康、歴代徳川将軍から社領の寄進を受けている。また春日大明神とも称されてきた。江戸時代には松原大明神とも称され、これは当地名が松原であることによる。

 祭神は境内掲示に大物主神・味耜高彦根神・建夷鳥神・天児屋根命とある。
 その他の説として、以下がある。
 『明治神社志料』 大物主神・味耜高彦根神・建夷鳥神
 『新編武蔵風土記稿』『武藏国式内四十四座神社命付』 味耜高彦根神
 『神社覈録』 味耜高彦根神・天児屋根命
 渡会延経『神名帳考証』 素義鳴尊
 『日本地理志料』 天櫛明玉神

 武蔵五日市駅前の都道33号線には檜原街道とも名が付いている。その道を西へ進んでいき、五日市出張所入口交差点を南へ進むと境内の北側に到着するので、右へ回り込むとつきあたりに社号標、境内入口の鳥居が東向きに建っている。鳥居をくぐってすぐ右に曲がると拝殿が南向きに建つ。南には秋川が流れている。境内社は別項に詳細を記す。
境内入口の鳥居
 
社号標
境内
鳥居をくぐってすぐの場所。
 
参道
さらに少し先で右に曲がると拝殿。拝殿に相対する参道もある。この参道を下っていくと秋川畔。
拝殿
入母屋造に千鳥破風、千鳥向拝。ちょっとめずらしい。拝殿に千木がついているのもめずらしい。
 
拝殿の社号扁額

本殿
神明造。後方から見通せた。
 
 
神楽殿
 
神輿殿
 
井戸跡?
堀兼井か?
境内社は広い境内の中のいろいろな場所に鎮座している。社名が判別できなかった境内社や見つけられなかった?境内社もある。 どうやら境内社の整理というか遷座や相殿神に変化があるようだ。また『境内由緒書』と『式内社調査報告』の境内社の記述に若干の誤差もある。
占方神社(1)
鳥居をくぐってすぐ右、境内南東隅にある。 立札には占方神社、扁額には「櫛真智神」とある。
 
大鳥神社(2)
神楽殿の右横、境内南西あたりにある。立札に大鳥神社とある。
 
祓戸神社(3)
社殿の左横にある。扁額には「祓戸大神」とある。
松原天満宮(4)
社殿の右後方にある。扁額には「松原天満宮」とある。
 
白光稲荷神社(5)
境内の北域にある。鳥居の扁額には「白光稲荷神社」とある。
 
廃用?となった社(6)
旧倭健命神社、旧菅原神社、旧占方神社。本殿の後方にある。立札が左側に取り外されていて、そこに倭健命神社、菅原神社(松原天満宮)、占方神社(消されている)とある。いま祭祀を行っていないと思われる。
『境内由緒書』には以下の境内社の記載がある。
 ・大鳥神社 若電神社、熊野神社を合祭する。
 ・菅原神社 小川神社、占方神社、倭健命神社を合祭する。
 ・日枝神社 伊多弖神社、松尾神社、平野神社、庭津日神社、国造社を合祭する。
 ・稲荷神社 松原稲荷神社、白光稲荷神社、福徳稲荷神社

『式内社調査報告』には以下の境内社の記載がある。
 ・三社合殿の通称大鳥さま 若雷神社、大鳥神社、熊野神社 神楽殿の横
 ・四社合殿の通称天神様 菅原神社、小川神社、倭健命神社、天兒屋根神社 本殿の西側
 ・六社合殿 伊多弖神社、日枝神社、住吉神社、占方神社、庭津神社、(五社しか記載がなく一社少ない) 境内の東北隅
 ・稲荷神社 松原、白光、福徳の三稲荷社 忠魂塔の横
 ・国造社 本社裏
とあり、境内社の数と祭神に若干の誤差がある。
境内の南、秋川を望む
 以下、現状と『境内由緒書』『式内社調査報告』の記載をふまえて、状況を整理してみたい。整理に当たっては当社の見解を現すものは『境内由緒書』であるとして、こちらを優先する。
 ・大鳥神社(2)と稲荷神社(5)については現状と各記載に相違はない。
 ・祓戸神社(3)については、双方に記載はなく、近年新しく祀られた社のようである。
 ・菅原神社(四社合殿の社)は立札の外された元(6)であった。立札に三社「倭健命神社、菅原神社、占方神社」あり、小川神社もそこに祀られていたと思われる。現状では菅原神社は(4)の松原天満宮に遷座、占方神社は(1)の占方神社に遷座されている。小川神社と倭健命神社は不明。
 ・日枝神社(六社合殿の社)は現状見当たらない(見落としかも)。元々あった場所に(4)の松原天満宮が鎮座している。
 六社合殿の日枝神社は伊多弖神社、松尾神社、平野神社、庭津日神社、国造社の合祭とすると、
 『式内社調査報告』の四社合殿社の天兒屋根神社は誤記でそこには占方神社と思われる。天兒屋根と櫛真智は同一視の説もあるので、一概には言えないかもしれない。
 『式内社調査報告』の六社合殿社の住吉神社と占方神社は誤記と思われ、そこには松尾神社、平野神社と思われる。本社裏の国造社は六社合殿社と混同していたと思われる。すなわち一社少ない社は国造社。
 以上から現状遷座の状況が不明な社は、小川神社、倭健命神社、日枝神社 伊多弖神社、松尾神社、平野神社、庭津日神社、国造社、(天兒屋根神社、住吉神社)である。これらは(1)の占方神社か(4)の松原天満宮のどちらかに遷座されているのだろうか。(境内に数多くの小さな祠がある。これらは考慮していない。)
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間
JR五日市線武蔵五日市駅から境内正面まで徒歩約15分。
参拝者駐車場=境内の東側がそれかも。駐車=バイク〇自動車〇。
駅から徒歩圏内の神社。
参拝時間は境内社を含めて約15分ほど。
[作成日]2018年2月23日
[更新日]2018年2月23日
[参考]  ・境内由緒書 ・式内社調査報告 ・武蔵の古社
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