所在地: | 埼玉県さいたま市西区飯田54 [地図] |
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御祭神: | 猿田彦命 |
公式頁: | |
社格等: |
延喜式内社 武蔵國足立郡 足立神社 明治6年 村社 |
足立神社
あだちじんじゃ
参拝日:2017年4月17日
中山神社から第二産業道路と名が付いた県道1号線を北上して、南中野南交差点を西進、大宮駅前の高島屋のある道を北へ、大栄橋交差点をまた西へ進む。道なりにいけば、水判土という地名の交差点がある。そこにある慈眼寺は足立神社論社のあった旧地。事前に調べていた水判土という変わった地名を目にしてうれしくなったのを覚えている。
水判土交差点は変則四差路で、そこから南西に延びる道沿いに足立神社の鳥居がある。中山神社の約40分後の12時すぎに到着。
埼玉県さいたま市西区飯田に鎮座。JR大宮駅から西へ約3.3km、北西約4.3kmが荒川と入間川が合流する地点で、西約2.6kmに荒川。
延喜式神名帳に記載のある武蔵國足立郡足立神社はいくつかの論社がある。
1.さいたま市西区植田谷本の足立神社(現在は飯田の足立神社に合祀) 『新編武蔵風土記稿』『大日本地名辞書』
2.さいたま市西区水判土の足立神社(現在は飯田の足立神社に合祀) 『特選神名牒』『武蔵の古社』
3.さいたま市北区宮原町の加茂神社 『日本地理志料』
4.鴻巣市笠原の久伊豆神社 『神名帳考證(出口延経)』『神名帳考證(伴信友)』
これらのうち植田谷本の足立神社と水判土の足立神社が有力な論社とされており、この二社ともに飯田の足立神社に合祀されている。この合祀は明治40年のことで、同時に附近の30社が合祀され、これまでの「氷川八幡神社」から「足立神社」に改称している。
※合祀された神社の数は式内社調査報告では12社となっているのと、境内のもうひとつの掲示板も12社。無格社の取扱いによる数の乖離と思われる。また水判土の足立神社の合祀は明治2年との説がある(『特選神名牒』)。
植田谷本、水判土ともに創建年代は不詳。
一説には足立神社は古代における殖田郷(いまの植田谷本周辺)に鎮座し、この地を本拠とした足立氏によって奉斎された神社であるという。
『新編武蔵風土記稿』には「名主勘太夫が屋舗の内にあり、打開けたる地なれば、古迹とは思はれざれど(中略)、延喜式神名帳に載する足立神社は、即當社なりと云う(中略)、されど正しき證迹なければいかにとも定めがたし」とあり、植田谷本説の根拠となっている。また小島家は足立氏の末裔だという話もある。
この地はいまは畑になっているのと、さいたま市指定天然記念物の楠が生えている。
水判土のほうの足立神社は慈眼寺の境内に祀られていたとする説、慈眼寺の裏手説、境内の山王塚という古墳の上説がある。
「水判土」は水端で、慈眼寺のある丘のすぐ下まで水沼が広がっていたと考えられており、この丘の上に武蔵国造の居所があったとの説もある。
また慈眼寺は元々足立神社の別当寺であったが、いつの頃からか社地を併呑したとの考察もある。
祭神は『式内社調査報告』によると猿田彦命。実際には明治40年の合祀によって数多い。元来は武蔵国造の祖先を祀ったともいわれる。
境内掲示板には
天神七代命として豊雲野神・宇比地邇神・角杙神妹活杙神・意富斗能地神妹大斗乃弁神・游母陀琉神・妹阿夜謌志古泥神・伊邪那岐神妹尹邪那美神。
地神五代神として天之御中主神・高御産巣日神・神御産巣日神・宇麻志阿斬謌備比古遅神・天之常立神・天照坐大神・須佐之男命。
日本武尊・市杵島姫命・多岐都比売命・猿田彦命・大国主神・天手力男神・菊理姫命・倉稲御魂神・応神天皇・菅原道真の24神、とある。
猿田彦命となっているのは、後世、街道の発展に伴って当地が要衝となり、道の神として猿田彦命を祀るようになったと思われる。
県道56号線沿いに参道入口と少し入ったところに鳥居。それほど広くない境内は入口からまっすぐの参道、拝殿まで約50m。途中に二の鳥居がある。二の鳥居をくぐってすぐ左に境内社の十二所権現神社がある。一の鳥居、二の鳥居、社殿は若干西寄りで南面している。
境内入口
左脇の社号標には「総社 足立神社」とある。境内の一の鳥居
参道は石張りで拝殿までまっすぐのびる。参道の二の鳥居
こちらは朱塗りで若干小ぶり。拝殿
比較的新しい拝殿。シンプルな入母屋造。本殿
透塀の中、朱塗りの流造。境内社の十二所権現神社
交通機関・駐車・駐輪情報・到着難易度・参拝時間・御朱印
JR大宮駅が最寄駅、西へ約3.3kmと距離があるので、さいたま市コミュニティサイクルの利用をお勧めする。参拝者駐車場=なかったと思う 駐車=バイク×自動車×。
徒歩は駅から少し遠い。バイク、自動車に関わらず容易に到着できる。
旧社地を含めた参拝時間は自転車で約20分、足立神社だけだと5分程度。
神職は社務所に常駐していないので、御朱印は別途問い合わせが必要。
足立神社旧社地、慈眼寺
訪問日:2017年4月17日
慈眼寺山門
慈眼寺観音堂
正徳6年(1716)足立神社と慈眼寺に境界争いがあり、その時の図面に、観音堂の右側斜め後方に足立神社が記されているとのこと。足立神社旧社地、小島勘太夫屋敷跡
訪問日:2017年4月17日
所在地:埼玉県さいたま市西区植田谷本 [地図]
足立神社の後に訪問。おおよその地図しか持っていなかったのと、川に囲まれた袋小路に立地しているため少し迷ったが、地元の方に聞くとすぐに答えてくれたので、周知の場所であるようだ。
植田谷本の足立神社は足立氏の子孫といわれた小島家が宅神として足立神社を勧請したものであるとの説がある。
足立神社の後に訪問。おおよその地図しか持っていなかったのと、川に囲まれた袋小路に立地しているため少し迷ったが、地元の方に聞くとすぐに答えてくれたので、周知の場所であるようだ。
植田谷本の足立神社は足立氏の子孫といわれた小島家が宅神として足立神社を勧請したものであるとの説がある。
小島勘太夫屋敷跡
小島勘太夫屋敷跡
[作成日]2018年8月13日
[更新日]2018年8月13日
[更新日]2018年8月13日
[参考]
・境内由緒書 ・式内社調査報告 ・武蔵の古社 ・新編武蔵風土記稿